永遠nocherunobuiri [Enfants de Tchernobyl Bélarus]
 




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永遠nocherunobuiri [2014/09/21 09:07]
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永遠nocherunobuiri [2014/09/21 09:08] (Version actuelle)
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 +<​html>​
 +<table border="​0"><​tr>​
 +<td width="​45"><​a href="​http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=chernobylforever"><​img src="​./​extra/​english.jpg"​ width="​40"​ height="​40"></​a></​td>​
 +<td width="​100"><​a href="​http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=chernobylforever">&​nbsp;<​big>​English<​br>​version</​big></​a></​td>​
 +<td width="​45"><​a href="​http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=tchernobylforever"><​img src="​./​extra/​french.jpg"​ width="​40"​ height="​40"></​a></​td>​
 +<td width="​100"><​a href="​http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=tchernobylforever">&​nbsp;<​big>​Version<​br>​française</​big></​a></​td>​
 +<td width="​45">​ <a href="​http://​br.ulule.com/​tchernobyl-forever/"><​img src="​./​extra/​ulule.jpg"​ width="​40"​ height="​40"></​a></​td>​
 +<td width=180 align="​center">&​nbsp;​ <a href="​http://​br.ulule.com/​tchernobyl-forever/"><​big>​プロジェクトの<​br>​成果はこちら</​big></​a></​td>​
 +<td width="​20">&​nbsp;</​td>​
 +<td width="​130"​ align="​center"><​big>​目標額27500 ユーロ中、現在</​big></​td>​
 +<​td><​iframe src="​http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​extra/​fonds.html"​height="​40"​ width="​150"></​iframe></​td>​
 +</​tr></​table>​
 +</​html>​
  
 +<boi frame-orange 80%| ;#;​**特別企画「永遠のチェルノブイリ」の誕生と目的**\\ \\ ;#;>
 +2012年1月、写真家のアラン=ジル・バスチードは、旅行記『永遠のチェルノブイリ/​ **Tchernobyl Forever**』を書き終えました。けれども、<被ばく人形>の写真に対して感じたのと同じ気持ちを、今回も味わったのです:この旅行記は、自分のモノではない…。 \\ 
 +
 +そこでアラン=ジルは、他の人々も手を入れられる、参加型の作品に仕上げようと思いついたのです。それがDVD+本という形での『永遠のチェルノブイリ/​ Tchernobyl Forever 』プロジェクトです。このプロジェクトは、チェルノブイリ事故のせいで被ばくを強いられた子どもたちを助けるための人道的キャンペーンとなったのです。チェルノブイリの子どもたちは、権力機関からもマスコミから、助けも受けられずに見捨てられています。あたかもチェルノブイリは終わったのだというかのように。そこで、アラン=ジルは「チェルノブイリ / ベラルーシの子ども協会」に彼のアイディアを紹介し、協会の助けを受けてこのプロジェクトは始動しました。準備ができあがったこの企画をゴールに導かなければなりません。**成功するかどうかは、みなさんの手にかかっています。**\\ ​
 +
 +;#; <wrap caution>​[[http://​www.ulule.com/​tchernobyl-forever/​|子どもたちのためにみなさんの参加をお待ちしています!]]</​wrap>​ ;#;\\ 
 +
 +</​boi>​
 +====== 特別企画:「永遠のチェルノブイリ」プロジェクト実施中 ======
 +~~NOTOC~~
 +
 +<​WRAP>​
 +[{{:​operation-speciale:​poupee-etb.jpg?​190 |Prypiat 2005}}] <tab> この写真は、2005年にプリピャチ市の幼稚園の庭で撮影されたものです。私がチェルノブイリ旅行の準備をしていたとき、十年前にプリピャチを訪れた経験のある知人が、当時このお人形が転がっているのを見つけて衝撃を受けたことを話してくれたのです。現地を訪れた私は、すぐに見つけることができました。かたわらには、人形にかぶさるように木が一本生えていました。私をガイドしてくれた人さえ、このお人形の存在は知りませんでした。\\
 +
 +<​tab>​残念ながら、私の写真が公表され、“世界中”に知られるようになってから、心ない観光客がもっと写真を撮りやすいようにと、自然が定めた慰霊の地から、お人形を動かしてしまったことを知りました。悲しいことです。\\
 +
 +<​tab>​チェルノブイリから帰国すると、私の写真を買いたいという声があがりました。私は驚き、何かしっくりこない気持ちを覚えました。「これは売り物ではないんだ。」私は、そう答えました。「これは僕のモノではない気がするから」と。私は写真をフランスの市民測定所クリラッドに贈呈しました。ベラルーシにバンダジェフスキーの研究所を設立する資金を募る目的のためです。またロール・ヌアラは、彼女のブログ "​Terre sur Libé" に、最近までこの写真を使っていました。私の写真展 //​Tchernobyl Forever// にも、この写真を、二十点あまりのほかの作品とともに出品しました。そしてやがてこの作品は、あちこちに紹介されるようになったのです。ローラ・ヌアラが言うように、この人形が、「恐ろしいくらい美しい」からかもしれません。\\
 +
 +<​tab><​tab>​**アラン=ジル・バスチード**
 +</​WRAP>​
 +<WRAP clear></​WRAP>​
 +\\
 +{{ :​tchernobylforever:​graph-jp.jpg?​400 |Cliquer pour agrandir}}
 +
 +<boi frame-blue|;#;​**CHERNOBYL - BELRAD - ENFANTS DE TCHERNOBYL BELARUS**\\ \\ ;#;>
 +<​tab>​チェルノブイリ原発事故から二十八年がたった今もなお、人々は、この惨事がもたらしたとてつもない結果とその意味を、総合的かつ明確に見ることができずにいます。「//​Tchernobyl forever// 永遠のチェルノブイリ・プロジェクト」は、様々なアーティスト、科学者、デザイナー、作家の協力のもとに、DVD+本を発行するという企画ですが、私はこの作品を大きく二部に総括しようと考えました。\\
 +
 +<​tab>​第一部(第一~三章)では、現状を紹介し、事故を俯瞰します:食物連鎖の放射能汚染状況や、汚染地域に住む人々の内部被ばくの状態を数値で提示します。子どもたちの健康状態は、年を追うごとに悲惨さを増していく一方なのです。そして、事故を大きく俯瞰するためには、1945年8月9日の原爆投下後、名高い“黒い雨”に襲われた長崎に迫る、チェルノブイリ閉鎖区域で測定された放射性降下物の規模について詳述します。\\
 +
 +<​tab>​第二部(第四~五章)では、ある独立の立場の組織の歴史を紹介します。チェルノブイリのフォールアウトによって引き起こされる内部被ばくの影響をもっとも受けやすい子どもたちに対して、放射能防護措置を実施することを目的として、ベラルーシ、ミンスク市に設立されたベルラド放射線防護研究所です。その歴史は、創設者である原子力物理学者ヴァシリー・ネステレンコという傑出した人物と切っても切れないものです。研究所はまた、2001年4月27日以来、フランスの「チェルノブイリ/​ ベラルーシの子ども協会」と歩みをともにしてきました。私は、2010年以来、当協会の会長をつとめる栄誉に浴しています。「チェルノブイリ/​ ベラルーシの子ども協会」は、ベルラド放射線防護研究所の経済支援を目的としいます。その助けなしには、研究所は生き延びることができなかったでしょう。\\
 +
 +<​tab>​「チェルノブイリ / ベラルーシの子ども協会」は、光栄にも、//​Tchernobyl forever// / 永遠のチェルノブイリ・プロジェクトを、「フォトグラフィスム協会」とともに進めるパートナーに選ばれました。この選択に感謝をしております。\\
 +
 +<​tab>​**Yves Lenoir**, //​イヴ・ルノワール、チェルノブイリ/​ ベラルーシの子ども協会会長//​
 +</​boi>​
 +
 +===== チェルノブイリ事故から28年:事故は永遠に… =====
 +<fs medium>​ミンスク市ベルラド放射線防護研究所1)とフランス・チェルノブイリ/​ ベラルーシの子ども協会の活動について[(http://​www.belrad-institute.org)]</​fs>​
 +
 +//Yves Lenoir イヴ・ルノワール、チェルノブイリ/​ベラルーシの子ども協会会長(2014年2-3月)//​
 +
 +
 +==== イントロダクション ====
 +<​tab>​**プロローグ**\\
 +[{{:​base_documentaire:​yves-lenoir.jpg?​155 ​ |Yves Lenoir}}]<​tab>​チェルノブイリ事故によって環境に放出されたセシウム137の半減期が近づいてきました。 そうしたなかで現在の状況は、何ひとつ問題は解決されていないのに、遠い地から見ると、一見“チェルノブイリは過去の出来事だ”と言っているような奇妙なものです。この機会に、この状況について手短なまとめをご紹介したいと思います。ひとつ確かな事実があります。それは、子どもたちがますます病気にかかっている、ということです。彼らの内部被ばく量に減少傾向が見られるのは、唯一、ベルラド研究所が防護措置で対処している地域のみなのです。実際には、チェルノブイリ事故後の世代は、脅威的な影とは言わないまでも、とてつもない不安につきまとわれています。というのも現在ますます病気にかかっていく子どもたち、彼らは実は、事故後に生まれた世代なのです。彼らは、事故当初の“放射性ヨウ素による攻撃”を自ら受けたわけではありません。それに彼らは、必ずしも事故によるフォールアウトの汚染を大きく受けた地域に住んでいるわけでもないのです。しかし彼らの両親は、全員、事故時に被ばくを体験しており、その多くは避難の行なわれた村々の出身者です。彼らの多くは、キノコやベリー類、猟獣、自分で釣った魚といった放射能汚染をしてしまった自然の幸や、家庭菜園の作物を食べつづけてきたために、長年の間被ばくをしてしまったのです。
 +++++続きを読む.|
 +<​tab>​このテクストは、チェルノブイリとは何かを理解するための素晴らしいプロジェクト『永遠のチェルノブイリ Tchernobyl forever 』[(写真家のアラン=ジル・バスチードは2005年にチェルノブイリ閉鎖区域で撮影を行ない、プロジェクト「Tchernobyl forever / 永遠のチェルノブイリ」を思いつきました。)]. のために書いたものです。『永遠のチェルノブイリ』は、私たちのガイドとなり、私たちを、原発周辺の“閉鎖区域”(ゾーン)に誘ってくれます。その地で私たちは、原子力事故というものが、目に見えない放射能によって、時間の経過とともに地上に残していく恐ろしい爪痕に、シリウスのような“無邪気な”視線を向けることでしょう。『永遠のチェルノブイリ』は、一種の“ストーカー”(stalker = 案内人)なのです。\\
 +<​tab>​“ストーカー”という語は、“残された世界”というものの素顔を暴きだす行為と否応なく結びついています。1972年、ストルガツキー兄弟の手による小説『ストーカー(路傍のピクニック)』によって、この言葉は、新たな意味を持つようになりました。アンドレイ・タルコフスキー[(タルコフスキー『ストーカー』(1979年)あらすじ:「誰もそれがどんな性質のものなのかを知らない立ち入り禁止区域“ゾーン”が存在する。いったいそこには原爆が落とされたのだろうか? あるいは隕石が落下したのだろうか? いずれにしてもあらゆる人々がこのゾーンを恐れ、またゾーンは、警察によって封鎖されている。立ち入ることは不可能だ。危険な場所だとされている。しかしゾーンの中心には、すべての願いが叶う“部屋”があると言う。“ストーカー(案内人)”と呼ばれる人々が、ゾーンに立ち入ろうとする人間を案内できるそうだ…
 + ある作家と物理学教授とが、こうした“ストーカー”の一人とコンタクトを取ることに成功し、名高い“部屋”を探求しようと決意した。しかし彼らは、この禁止区域“ゾーン”には、“ストーカー”にしか意味を理解することのできない独自のルールのあることを知らない。このルールによって、作家と教授の真の人格が暴露されていくことになる。それは彼ら自身の内奥に秘められていた顔だった…。」)]. は、この小説をもとに映画『ストーカー』を撮影しました。2011年にはアラン・ドゥ・アル監督が、ドキュメンタリー映画 Chernobyl 4 ever [(映画のリンク(日本語字幕版):https://​www.youtube.com/​watch?​v=TZma86o4IEY)] の冒頭とクライマックスとに、コンピューターゲームのシーンを使用しましたが、そのゲームのタイトルもまた『ストーカー』[(ウクライナで開発されたこのゲームは2001年に開発が発表され、2006年に発売された。同ジャンルにおける最優秀賞を受賞している。)]. です。それこそが、彼のフィルムのテーマだからです。アル監督は、ウクライナの若いミュージシャンたちの目を、チェルノブイリの閉鎖区域の意味に対して開かせるのです。現地において、そして彼らの心の中において。\\
 +<​tab>​そして今度は、私たちがこの慎ましい「案内人(ストーカー)」の役を務める番です。つまりは自らまず、この原子力事故が産み落とした計り知れない恐ろしい新世界を理解することを試み、つづいて、それをほかの人々に伝えていくのです。各人がこの案内の糸をどのように引くのか、それによって、糸は切れてしまうこともあります。ストルガツキー兄弟も、タルコフスキーも、ロシアのウラル地方に、原子力大事故が原因で出来上がった立ち入り禁止区域(ゾーン)の存在する事実を知っていました ​ [訳注:ウラル核惨事によるもの]。偉大な視覚の詩人である彼らは、人間の夢と欲望、そして大惨事の勃発、そのことによって人々の心に喚起される魅惑を作品のなかに結合させることに成功しました。コンピューターゲーム『ストーカー』を制作したリクビダートルは、彼らの意志を受け継ぎ、それをさらに若い世代に伝えていきました。おそらくタルコフスキーの映画など一本も見たことのない世代に。アラン・ドゥ・アル監督は、キエフのカフェでこのゲームにこうじている若者に出会いました。この出会いによって、足元にポッカリと開いた深淵に魅惑され、アル監督は一本の古典的なシナリオを思いついたのです。“Tchernobyl forever (永遠のチェルノブイリ)”。この英語のタイトルを、写真家のアラン=ジル・バスチードは、チェルノブイリの閉鎖区域で撮影した彼の写真集のために選びました。そしてこの英語が、今度は、私自身の想像力を刺激するのです。というのも英語では、“ストーカー”という単語は、本来の「しつこく絡む人間」という意味を保っているからです。チェルノブイリという事故の幕を閉じようとするために、巨大な力が働いています。だからこそ、何度でもそれを開きなおそうとこだわることは、無意味でも無価値でもないのです。\\
 +<​tab>​なによりも、偉大なる一人の“こだわりの人(ストーカー)”が、私たちに道を開いてくれました。故ヴァシリー・ネステレンコです。私たちの仕事を、ヴァシリー・ネステレンコに捧げたいと思います。\\
 +
 +<​tab>​**概略**
 +  - 事故から28年がたった現在も、ベラルーシ国内の放射能汚染状況は、汚染地域の住民にとって絶え間ない脅威を表わしています。
 +  - ベラルーシはウクライナの北、ロシアの南東に位置します。国土の放射能汚染は、核戦争後よりも凄まじい状況です。
 +  - 住民、特に子どもたちの健康被害は悪化の一途をたどっています。
 +  - ベルラド放射線防護研究所、その歴史、その唯一無比の役割について。
 +  - 5. 「チェルノブイリ/​ ベラルーシの子ども協会」とベルラド研究所の長年にわたるパートナーシップについて。
 +
 +~~REFNOTES~~
 +++++
 +
 +
 +==== 1 - 今でもチェルノブイリは問題が山積み ====
 +;#;<fs medium>​チェルノブイリ事故から28年がたった今でも、ベラルーシの放射能汚染は汚染地域に住む人々にとっては絶え間ない脅威を表わしています。</​fs>;#;​\\
 +
 +<​tab>​この脅威が現実的にどういうものなのかを示す二つの要素があります。一つは1986年のフォールアウトによる甚大な被害に見舞われた地域の植物や動物の放射能汚染量です。もう一つは、ベルラド放射線防護研究所のチームが実施している、子どもたちの内部被ばくの測定結果です。\\
 +<​tab>​近年行なわれた計測結果によれば、食物を原因とする被ばくリスクが相変わらず明白に存在していることがわかります。下記の二つの表は2013年の状況を表わしたものです:
 +++++続きを読む.|
 +<​WRAP>​
 +<boi 380px left frame-blue | ;#;<​color red>​**モバイル研究室**</​color>;#;>​\\
 +
 +移動式測定所による測定結果(2013年3月から9月)\\
 +契約48/​12に基づき、移動式測定所は以下の活動を行なっている:
 +2013年3月から5月にかけてゴメリ地方レルチツィ地区の食品におけるセシウム137汚染値の測定\\
 +
 +  * プリボロヴィチ村 ― サンプル31点 中 RDU-99(基準値)超過ケース2点
 +  * ブクチャ村 ― サンプル34点中4点超過
 +  * シモニチ村 ― サンプル29点中 3点超過
 +  * グルシュコヴィチ村 ― サンプル31点中 3点超過
 +  * ジェルジンスク村 ― サンプル32点中 7点超過
 +  * ボロヴォイエ村 ― サンプル33点中 8点超過
 +  * ドゥブロヴァ村 ― サンプル30点中 6点超過
 +  * ストドリチ村― サンプル 30点中 2点超過
 +  * グレベニ村― サンプル 27点中 4点超過
 +  * ブイノヴィチ村― サンプル 34点中 9点超過
 +  * リプリアニ村― サンプル 32点中 5点超過
 +
 +モギリョフ地方チェリコフ地区:
 +  * ソコロヴカ村― サンプル 29点中 3点超過
 +  * ロブチャ村― サンプル 21点中 0点超過
 +  * イエズェリ村― サンプル 21点中 0点超過
 +
 +ゴメリ地方イエルスク地区:
 +  * ローザ・ルクセンブルグ村― サンプル 31点中 10点超過
 +</​boi>​
 +<boi 380px right frame-blue | ;#;<​color red>​**モバイル研究室**</​color>;#;>​\\
 +
 +移動式測定所による測定結果
 +
 +  * ヴァラヴァスク村 ― サンプル31点 中 超過ケース10点
 +
 +ゴメリ地方レチツァ地区:
 +  * サルタノヴァ村 ― サンプル34点中2点超過
 +  * ロヴェンスカヤ・スロボダ村 ― サンプル30点中 0点超過
 +;#;2013年9 月 - 11月;#;
 +
 +ゴメリ地方レルチツィ地区:
 +  * ェルジンスク村 ― サンプル27点中 1点超過
 +  * グルシュコヴィチ村 ― サンプル37点中 3点超過
 +  * ブクチャ村 ― サンプル30点中1点超過
 +  * シモニチ村 ― サンプル33点中6点超過
 +  * プリボロヴィチ村 ― サンプル49点 中 7点
 +  * トネツ村 ― サンプル31点中 4点超過
 +  * スレドニエ・ペチ村 ― サンプル36点中 5点超過
 +  * グレベニ村 ― サンプル45点中 7点超過
 +  * ドゥブロヴァ村 ― サンプル45点中 9点超過
 +  * マルコヴスカヤ村 ― サンプル53点中 13点超過
 +  * ボロヴォイエ村 ― サンプル35点中 9点超過
 +  * ミロシェヴィチ村 ― サンプル27点中 6点超過
 +  * ストドリチ村― サンプル 27点中 6点超過
 +  * リプリアニ村― サンプル 35点中 5点超過
 +  * クラスノベレツィエ村 ― サンプル40点中 5点超過
 +2013年3月から11月にかけて計測された合計1078点のサンプルのうち、RDU-99 (ベラルーシ基準値)の超過は164点において認められた。
 +</​boi>​
 +</​WRAP>​
 +<WRAP clear></​WRAP>​
 +<​tab>​検査を行なったサンプルの15.2% から、ベラルーシの法が定める限界値を超える汚染値が計測されています。ベラルーシにおける食品の放射能汚染許容基準値は下記の通りです:
 +<WRAP clear></​WRAP>​
 +
 +;#;;#;
 +
 +<boi 610px middle frame-blue | ;#;<​color red>​**ベラルーシ国民のための食品・農作物・飲料水内における放射性核種セシウム137濃度許容基準値(RDU-99)**</​color>;#;>​\\
 +
 +|<600px 200px 100px 200px 100px >|
 +^  ^  Bq/kg, Bq/l  ^  ^  Bq/kg, Bq/l  ^
 +| 飲料水 ​ |  10  | 小麦粉・荒挽きの穀類 ​ |  60  |
 +| 牛乳 ​ |  100  | 砂糖 ​  ​| ​ 60  |
 +| コンデンスミルク ​ |  200  | 植物性油脂 ​ |  40  |
 +| カッテージチーズ ​ |  50  | 動物性油脂 ​ |  100  |
 +| チーズ ​ |  50  | 野菜 ​  ​| ​ 100  |
 +| バター ​ |  100  | 果物 ​ |  40  |
 +| 牛肉 ​    ​| ​ 500  | 栽培されたベリー ​ |  70  |
 +| 豚肉・鶏肉 ​  ​| ​ 180  | 野生のベリー ​ |  185  |
 +| パン ​ |  40  |  生キノコ ​ |  370  |
 +| ジャガイモ ​ |  80  | 乾燥キノコ ​ |  2500  |
 +| 穀物 ​ |  180  | 野禽 ​  ​| ​ 500  |
 +| 干草 ​  ​| ​ 1300  | 牧草 ​ |  165  |
 +</​boi>​
 +
 +
 +<​tab>​上記の基準値はICRP(国際放射線防護委員会)の勧告に基づいて制定されたものですが、はたして本当に安全なのでしょうか? 毎日10 Bq のセシウム137を摂取した場合の体内蓄積量を見れば、答えは明快です:いいえ、安全ではありません。人間を5つのカテゴリーに分類してみましょう:(1)一歳以下の乳児 (2)14歳までの子ども (3)思春期の少女と成人女性 (4)思春期の男性 (5)成人男性。セシウム137の指数関数的減衰期 [(指数関数的減衰期とは、一回の摂取によって体内に取り込まれた濃度が1/​ e (eはネイピア数)減少するのに必要な期間。つまり半減期の1,​44 倍ということになる。一日に体内に摂取される量にこの係数を掛けることで、身体負荷量の飽和値を算定することができる。それはほぼこの減衰期の5倍にあたる。)] は、この5つのカテゴリーにおいてそれぞれ順番に、15日、30日、60日、100日、そして150日です。また常に考慮に入れなければいけない体重ですが、それぞれのカテゴリーにおける指標体重は、順番に:6キロ、40キロ、60キロ、70キロ、85キロです。あとで見るように、若い人間ほど、慢性的な放射性核種の体内への移行と体外排出とが平衡状態に到達するのが早いです。次の表-1 は、汚染地域における放射線防護の根本的な問題を示しています。
 +
 +<boi 600px frame-grey|表-1 セシウム137を10Bq/​日摂取した場合の集積期間後の身体負荷量>​\\
 +
 +|<590px 50px 130px 130px 90px 130px 60px >|
 +^  ^  カテゴリー ​ ^  指数関数的減衰期 ​ ^ 指標体重 ​ ^  セシウム137蓄積量 ​ ^  集積期間 ​ ^
 +|  1)  | 一歳以下の乳児 ​ |  15日  |  6キロ ​ |  25 Bq/kg  |  2ヶ月 ​ |
 +|  2)  | 14歳までの子ども ​ |  30日  |  40キロ ​ |  8 Bq/kg  |  5ヶ月 ​ |
 +|  3)  | 思春期の少女・女性 ​ |  60日  |  60キロ ​ |  10 Bq/kg  |  10ヶ月 ​ |
 +|  4)  | 思春期の男性 ​ |  100日 ​ |  70キロ ​ |  13 Bq/kg  |  1年半 ​ |
 +|  5)  | 成人男性 ​ |  150日 ​ |  80キロ ​ |  17 Bq/kg  |  2年  |
 +</​boi>​
 +
 +<​tab>​単純化してしまわないように説明しておきましょう。ある程度の汚染レベルの食品を摂取をつづけることは、最終的には体重の1キロに対して、一日に摂取したセシウム137の量と同等の体内蓄積量をもたらすことになります。ただし、乳児においてはこの量は2倍になります。また、若い人体組織ほど、体内汚染のスピードも速く、体内の負荷量も高まります。\\
 +<​tab>​つまり低年齢の子どもが、許容基準値である100Bq/​l の牛乳を飲みつづけた場合、200Bq/​kg が体内に蓄積することになるのです。また子ども、成人にかかわらず、ベラルーシの法が定める汚染許容基準値の食品(ジャガイモ、肉、穀類など)からなる食事をとりつづけると、やはり、およそ200Bq/​kg を体内に蓄積することになります。ユーリ・バンダジェフスキーが学長を務めていたゴメリ医科大学の研究によれば、体内蓄積量が20Bq/​kg を超えると、子どもの体に変化が現われはじめました。このリミットは、汚染地域に住んでいるかぎり、いかに細心の注意を払っても守ることは不可能に等しいのです。下記の図-1 に表示されているのは、同じ村に住む二人の子どもの身体負荷量が変化していく様子です。どのような現実の身体的、社会的条件が内部被ばくを左右するのかを知る手がかりとなります。
 +
 +{{ :​tchernobylforever:​problemes-04-jp.jpg?​645 |}}
 +;#;図-1 危険な環境に住む二人の子どもの十年間の軌跡:対照的な生活スタイル;#;​\\
 +
 +<​tab>​家族や文化といった環境の差に加えて、特定することが難しい大きな要因が二つあります。\\
 +<​tab>​一つ目は土壌汚染と体内汚染とは別だということです。この事実は、2003年にゴメリ州にある100箇所の村で実施された調査によって証明されました。下の図-2 はその調査結果を表わしています:
 +
 +{{ :​tchernobylforever:​problemes-05-jp.jpg?​645 |}}
 +;#;図-2 :土壌汚染と体内汚染との間には相関関係は存在しない;#;​\\
 +
 +<​tab>​特定の難しい二つ目の要素は、環境汚染というものが極めて不均一に拡散しているということです。\\
 +<​tab>​例えば、イエルスク地区にあるヴァラヴスク村で2011年に採取されたキノコ、また2012年にホイニキ地区で採取されたキノコからは、それぞれ27万5000Bq/​kg、26万8000bq/​kg の放射能が計測されました。一般的にベリー類やキノコ、また猟獣や魚の汚染は、基準値を大きく上回ります。灰を自家菜園の肥料として使用する風習も、たびたび問題を引き起こしています。冬に燃やされた木材の汚染がそのなかに凝縮しているからです。1万Bq/​kg という基準値を上回ることはしじゅうあります。レチツァ地区のヴィシェミール村で2011年に採取したサンプルからは、6万3000 Bq/kg の汚染が計測されました。\\
 +<​tab>​ベルラド研究所が二十年間にわたって収集してきたデータが教えてくれる基本的な教訓を抑えておきましょう:学校教育に放射線防護を取り入れることや、食材の選択・その調理法についてアドバイスを行なうこと、そしてビタペクト(ペクチンをもとにしたサプリメント)を服用することによって、子どもたちの体内蓄積量を大きく引き下げることは可能です。しかしながら、環境全体が放射能汚染していること、そしてその汚染が人間のもとにたどりつく経路が複雑であること、また法的な許容基準値があまりに高すぎることが、体内の蓄積量をコンスタントに20Bq/​kg 以下に抑えることをほとんど不可能にしているのです。\\
 +<​tab>​ここで行なわれたセシウム137による汚染の分析方法は、もちろんストロンチウム90にも適用できます。しかしストロンチウム90は… 体内での指数関数的減衰期が3600日もあるのです! 集積期間が緩慢であるため、一日1Bqのストロンチウム90を摂取しつづけた場合の問題を評価できるようになるためには、7年間を待たなければなりません。これは、子ども時代の半分あまりの年数です。そして人体組織には1800Bq/​kg もの放射能の蓄積されたことが容易に示されます。この数値は、解剖以外の手段では、なかなか計測できるものではありません…。ストロンチウム90はベータ線を放射し、通常のガンマ線検知器では検出できないからです。この放射性核種は骨のなかに蓄積します。そして骨肉腫、白血病といった健康被害を引き起こしすのです。\\
 +<​tab>​ベルラド放射線防護研究所は、昨年、食品中のストロンチウム90を測定するための機器を入手しました。それによって得られた測定結果は、公式の基準値と比較し、また先に述べたような蓄積期間の長さを考えると、ストロンチウムによる汚染の激しいベラルーシ南部[(1986年4月28日から29日の夜にミンスクを出発したネステレンコが、各地を計測してまわったとき、ブラーギン地区で300 μSv/h の空間線量を記録した。この場所で後にベルラド研究所は、深刻なストロンチウム90による汚染を発見した。)],​ の地域では、この放射性核種が、特定することの難しい、真の脅威を表わしていることを示しています。
 +
 +<boi 320px frame-blue | ;#;<​color red>​**ベラルーシでの食品、農業関連品、飼料のストロンチウム90濃度の許容基準値**</​color>;#;>​\\
 +|< 300px 220px ->|
 +^   ^ Bq/kg, Bq/l  ^
 +| 飲料水 ​ | 0.37  |
 +| 牛乳、全脂乳製品 ​ | 3.7  |
 +| パン、ベーカリー類 ​ | 3.7  |
 +| ジャガイモ ​ | 3.7  |
 +| ベビーフード ​ | 1.85  |
 +
 +野菜・原材料:
 +
 +|< 310px 220px - >|
 +| 穀類 ​ | 11  |
 +| 干草 ​ | 260  |
 +|  牧草 ​ | 37  |
 +</​boi>​
 +
 +
 +<boi 460px frame-blue | ;#;<​color red>​**食料、農業関連品、飼料のガンマ・ベータ分光器 MKS-AT1315での測定結果報告**</​color>;#;>​\\
 +|< 450px 310px - 90 >|
 +^    ^  Bq/kg  ^  基準値Bq/​kg ​ ^
 +| ジャガイモ(ブダ・コシュレヴォ地区コムナール村) ​ |  <​3.8 ​ |  40  |
 +| キュウリ(ブダ・コシュレヴォ地区コムナール村) ​ |  <​4.75 ​ |  40  |
 +| ビート(ブダ・コシュレヴォ地区コムナール村) ​ |  <​4.04 ​ |  40  |
 +| リンゴ(ブダ・コシュレヴォ地区コムナール村) ​ |  5.51  |  30  |
 +| ジャガイモ(ブダ・コシュレヴォ地区ドゥラヴィチ村) ​ |  <​3.8 ​ |  40  |
 +| 穀粒(ブダ・コシュレヴォ地区シロコイエ村) ​ |  <​3.46 ​ |  11  |
 +| ジャガイモ(ブラーギン地区ウヴァロヴィチ村) ​ |  <​3.95 ​ |  40  |
 +| イチゴ(ブラーギン地区シャリボヴカ村) ​ |  <​23.3 ​ |  30  |
 +| タマネギ(ブダ・コシェレヴォ町) ​ |  <​5.48 ​ |  40  |
 +| パセリ(ブダ・コシェレヴォ町) ​ |  <​5.56 ​ |  40  |
 +| 大麦(ブラーギン地区、サヴィチ村) ​ |  87.8  |  11  |
 +| 大豆(ブラーギン地区、サヴィチ村) ​ |  63.5  |  11  |
 +| 燕麦の粒(レルチツシ地区、ジェルジンスク村) ​ |  12.7  |  11  |
 +最後の3点が基準値を超えた。大豆と燕麦が基準値を超えることが何回かあった。
 +</​boi>​
 +
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 +<​tab>​下の地図は、ヴァシリー・ネステレンコが1986年4月28日から29日にかけての夜中に、ミンスク市からウクライナの国境まで、放射能汚染値を測定しながらまわったルートを表わしています。地図上のいくつかの村や地区の名前は、本文中でも参照されてきました。原子力物理学者のネステレンコは、即座に、どんな規模の悲劇が進行しつつあるのかを悟りました。
 +
 +{{ :​tchernobylforever:​problemes-08-jp.jpg |}}
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 +<​tab>​そしてこの事故が大惨事に発展するのを阻止するべく、チェルノブイリ原発周辺100km圏内に住むすべての人々を、即座に予防避難させることを政府に勧告したのです。しかし勧告は聞き入れられませんでした。
 +~~REFNOTES~~
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 +++++
 +
 +==== 2 - まるで核戦争後の世界 ====
 +
 +;#;<fs medium>​ベラルーシはウクライナの北、ロシアの南東に位置します。国土の放射能汚染は、核戦争後のものよりも凄まじい状況です。</​fs>;#;​\\
 +<​tab>​1945年以来、世界中の原子力国家は、何万発という原発や水爆を備蓄してきています。そのうち数千発はミサイルに搭載され、常時発射準備態勢にあります。\\
 + 世界には、敵国を監視するためだけでなく、こうした核爆弾のあらゆる誤射を回避するためにも、複雑な核監視システムが張り巡らされました。しかしそうした厳重な警戒にもかかわらず、今までに何度も、そして1983年と1995年には特に深刻に、後一歩で“誤射”によって攻撃がはじまり、そしてそれに対して相手国が“正当”に反撃してしまう、というシナリオになりかけ、砲撃合戦が発生しかかっていたことがわかっています。そのたびに最悪中の最悪の惨事から世界を救ったのは、政治的決定者が最終判断をくだす直前に、敵国によるミサイル発射の現実性を評価した責任者の良識でした。世界は核戦争勃発寸前の状態にある。それは政治と軍事責任者たちにとっては相変わらず悪夢であり続けています。しかも“沈着冷静”という基本的な美徳を、金とプロパガンダのおかげで選出される今日の大統領にどれほど期待できるのでしょうか?
 +++++続きを読む.|
 +<​tab>​歴史とは皮肉なものです。チェルノブイリ原発事故のフォールアウトや、それよりも汚染面積の点では(汚染値ではなく)やや小規模である福島原発事故によるフォールアウトは、戦車や戦闘機が砲弾や核弾頭を砲撃し合う“現実の”戦場よりも、さらに凄惨な放射能汚染の傷跡を地上に残したのです。よりによって電力を生産していた原子力発電所が、私たちが恐れていた核戦争によるものよりも甚大な放射能被害を引き起こしてしまったわけです。この半世紀の間、国際原子力機関IAEAが達成させようとしてきた使命とは裏腹に…:\\
 +//​「(IAEAの使命とは)世界人類の平和、健康、そして繁栄のために原子力が貢献することを推進することである。」//​
 +<​WRAP>​
 +{{:​tchernobylforever:​pga-01.jpg?​140 |}}<​tab>​これが最初の計算違いでした。数々の原水爆実験によるおぞましい被害はさておき、地球上の人類が保有する数万という数の核ミサイルが、軍事的な誤射や事故から大惨事を引き起こしたことは、今のところありません。ところが同じ期間に、世界にある約四百基の原子炉のうちの五基が破壊され、膨大な量の人工放射能を環境に放出してしまったのです。この事故調書の意味するところは衝撃的です。現在の世の中では、商業用原子炉の方が、醜い顔をした軍事用の兄弟分よりもはるかに危険で脆く、有害であるこが暴露されたのです。\\ \\
 +<​tab><​- //​爆発30ミリ秒後( 核実験「ハウ “How”」 1952年6月5日、ネバダ核実験場)//​
 +</​WRAP>​
 +<WRAP clear></​WRAP>​
 +<​tab>​二つ目の計算違いは、人類の繁栄について始まっています。被害総額4千億ドル。それがチェルノブイリ事故処理のためにベラルーシとウクライナが支払わなければならなかった公式の金額です。国民の平均月収が400ドル程度という国でです。4千億ドルという金額は、世界中の原発を合わせた資本の半分をも軽く超えてしまいます。これが本当に//​「繁栄」でしょうか?... 「貧困」の間違いではないでしょうか?//​\\
 +<​tab>​さて次に、放射線学のレトリック(語法)を不誠実に用いていると言われるようなケースを、数量化しながら検証してみましょう。\\
 +<​tab>​まずはじめに、半減期の長い主な放射性物質、放射性核種であるセシウムとストロンチウムの降下量を、それぞれ核兵器の爆発によって放出される場合と原子炉事故によって放出される場合とで比較してみます。ただし無知だという非難にさらされないためにも、あらかじめ二つの点を確認しておきます:
 +  * 核分裂生成物の配分は、核爆発(速度の速い中性子)によって発生するものと、原子炉内の熱中性子が引き起こす核分裂によって発生するものとで少し異なります。
 +  * 半減期の非常に短い生成物の占める割合は、核爆発においては非常に大きいですが、原子炉内ではまさに短命という理由から[(フランス語版ウィキペディア「核分裂」の項目参照:http://​fr.wikipedia.org/​wiki/​Fission_nucléaire#​D.C3.A9composition_de_l.27.C3.A9nergie_de_fission :核分裂生成物の崩壊にともなって放出されるエネルギーの総量は、爆発によって放出されるエネルギーの6.5% にあたる。一方、原発が停止された直後の残留エネルギーは、その出力(核分裂反応による。参考:http://​lpsc.in2p3.fr/​collot/​cours/​Reacteurs.pdf)の 3から5% に当たる。爆弾の爆発に伴うエネルギー量とのこの2.5% という差は、半減期の短い、あるいは非常に短い核分裂生成物が放出するエネルギーの量に当たる。これら寿命の短い核分裂生成物は、原子炉内では蓄積されることはないのだ。また寿命の短い核分裂生成物が人体に障害を与える力は、爆発後一週間の間は、極めて大きい。)]. それらが蓄積されることはありません。こうした半減期の短い、あるいは非常に短い生成物(特に放射性ヨウ素131、132、テルル132など)は、「黒い雨」という名で不幸にも有名になってしまった長崎を襲った有毒性放射性汚染物の主な含有物で、黒い雨とは、これらが爆弾の構造や超ウラン元素由来のさまざまな成分と混ざり合ってできたものでした。爆発によって被ばくをした人間の身体は、非常に短期間で膨大な量の崩壊エネルギーを“取り込んでしまった”ことになります。多くの人々は、急性被ばく障害の症状に苦しみながら間もなく亡くなりました。また生き延びた人々は、生涯にわたって、通常の医学では原因の究明が困難な健康被害に苦しむことになりました。[(2) マルク・プチジャン監督『核の傷』参照:http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=films-interviews-debats#​blessures_atomiques)].
 +<​tab>​一方で、何ヶ月もたった後に残る放射性の残留物は、主にセシウムとストロンチウムから構成されます。これらの放射性核種は、核爆発による場合はほぼ均等に拡散しますが、原子炉によって放出された場合には、状況は異なります。ストロンチウムの化合物はセシウムほど揮発性ではありません。ですから特に遠隔地での降下物の大半はセシウムとなるわけです。\\
 +<​tab>​長崎原爆の放射性降下物については、比較的後年になってからですが、数多くの研究が行なわれました。\\
 +<​tab>​そうした研究のひとつに、長崎市にある貯水湖、西山水源地の真ん中から採集した堆積物コアにおけるセシウム137の分布を調査したものがあります。[(https://​www.jstage.jst.go.jp/​result?​item1=4&​word1=Fallout+in+Nishiyama+District%2C+Japan+-+WANMEC2 (Black rain from the Nagasaki artomic bomb))] 西山水源地は黒い雨の一部を直接に浴びており、それによる初期汚染に加えて、その後、注ぎ込む河川からの汚染を長年にわたって溜めてきています。湖底の土の堆積は、年に5~7cm と活発に成長しています。土のなかの生物学的活動によって、汚染は垂直方向に配分されていきます。\\
 +<​tab>​別の研究[(https://​www.jstage.jst.go.jp/​result?​item1=4&​word1=Fallout+in+Nishiyama+District%2C+Japan+-+WANMEC2 (Aging Effect of 137Cs Obtained from 137Cs in the Kanto Loam Layer))] は、黒い雨を受けた柔らかい土壌(腐葉土)から採集したコアを調査しています。\\
 +<​tab>​この二つの研究の数値は、そのままでは一見一致しません。前者の結果をBq/​kg からBq/ m2に単位変換すると[(この換算を行なうためには、ひとつだけ仮定が必要とされます。それは乾燥した堆積物の密度ですが、2という値を使用しました。)]、堆積物コアの1941年から1953年に当たる層から計測されたセシウム137は、57 kBq/ m2 に相当します。一方、後者のコアは15kBq/​m2 の初期汚染を表わしていました。\\
 +<​tab>​上に記したように、水流と堆積に関する条件を考慮に入れると、長崎原爆がもたらした初期汚染は25 から 35 kBq/​m<​sup>​2</​sup>​. の間の数値であったことが推測されます。重要なのはこの点なのです。核爆弾による爆発物のほとんどは、キノコ雲によって上空高くに運ばれるため、爆発地点で起こる局地的なフォールアウトは、原子炉事故によるものに比べて比較的少ないのです。つまり、核爆弾が爆発した場合、放射性物質降下による被害は、ある程度民主主義的に広く分散される傾向があるわけです。それぞれ多少の差はあるものの、すべての人々が各自その配分を受けます。そしてそれぞれの量はわずかです。例外は、気象条件がそろっている場合、爆心地“ゼロ地点”で黒い雨に遭った人々です。\\
 +<​tab>​それでは規模の比較をしてみましょう。図-1はそれをまとめたものです。
 +
 +{{ :​tchernobylforever:​pga-02-jp.jpg |}}
 +;#;//図-1 - 核実験と原子力事故によるセシウム137、ストロンチウム90の降下量比較//;#;​\\
 +
 +<​tab>​重要な尺度が三つあります。一つ目は、セシウム137とストロンチウム90 を100兆Bq 放出した1945年の広島原爆。次に、広島原爆の約1万倍にあたる大気圏で行なわれたすべての核実験による放出。この放出によって、地球の表面積全体に起こったセシウムとストロンチウム降下の平均残留濃度は、今日およそ2500Bq/​ m2 とされます。そして三つ目は、スタンダードな1000メガワットの原子炉の炉心燃料には、広島原爆の1000倍を超えるセシウムとストロンチウムが存在するという事実です。\\
 +<​tab>​上記の三つの尺度を基準にすると、チェルノブイリ事故による降下物の規模は、セシウムについては広島原爆の500から800倍、ストロンチウムは15から20倍だったと推定できます。最悪の事態からそう遠くない規模です。\\
 +<​tab>​図-2- は、チェルノブイリの降下物分布図です。同類である福島の場合もそうですが、この図を見ると、冒頭で述べた言葉がはっきりとわかります。被害を受けた住民の置かれた立場は、何百という戦車が広大な戦地で核弾頭を撃ち合ったり、爆撃機による対空地核ミサイルの攻撃を受けたりする戦闘が後に残す焼け野原よりも、悲惨なものなのです。
 +
 +{{ :​tchernobylforever:​pga-03-jp.jpg |}}
 +;#;//​図-2- チェルノブイリ事故によるヨーロッパへのフォールアウトと最も被害を受けた地域の拡大図//;#;​\\
 +
 +<​tab>​この地図でオレンジ色で示されているおよそ1~2百万km2 の面積にあたる地域一帯 が、長崎市の西山水源地一帯数十km2に黒い雨がもたらしたのと同量の平方メートル当たりのセシウム汚染を受けているのです。さらに50万km2 の地域が、その30倍をも超える数値にまで達する汚染を受けました。\\
 +<​tab>​「現実は残酷だ!」というセリフは、1985年7月5日、フランスのムルロワ環礁での核実験に反対していたグリーンピースの活動船「レインボー・ウォーリア」号が、ニュージーランドのオークランド港でフランスの情報機関によって撃沈されたときに、ある首相が口にしたものです。しかし1986年4月26日後の日々、環境に撒き散らされたうち勝つすべのない毒物との共存を強いられることになった数百万という人々の運命を前に、このような心の叫びをふたたび口にするフランスの政治家は、一人として存在しませんでした。
 +
 +~~REFNOTES~~
 +++++
 +
 +==== 3 - 子どもたちの健康状態 ====
 +;#;<fs medium>​健康状態、特に子どもたちのものは悪化する一方です。</​fs>;#;​\\
 +
 +<​tab>​1989年2月、ジャーナリストのウラディミール・コリンコは、『ソヴィエツカヤ・ビエロロシヤ』新聞に、ウクライナ北部ナロディチ市周辺の状況を報告する長い記事を発表し、この記事はまもなく、ペレストロイカとグラスノスト(情報公開)のための新聞『モスクワ・ニュース』にも取り上げられました。前書きのなかで、コリンコは当時、次のように報告しています:\\
 +<​tab>//​「1986年4月末、新設されたばかりの様々な委員会の“参謀”たちがいたるところにひしめいていた。(中略)破壊された原子炉の上空には、いまだに赤い暈(かさ)と煙の浮かんでいるのが見えた。(中略) それにもかかわらず、早くも専門家連たちは延々と議論を繰り広げ、事故の規模を評価しようと試みていた。そんな大混乱のなかでは、ジャーナリストである私の耳には本来入るべきではないような言動もずいぶんと飛び込んできた。情報はその後、つぶさに ふるいにかけられるようになっていったが、それでも私は当時、いろいろなことを抑えることができた。だがそれらの本当の意味がわかるようになったのは、最近になってからのことだ。例えば、事故当初に下された評価がどの程度まで正確だったのかということなど。」//​
 +++++続きを読む.|
 +<​tab>​コリンコはさらに記事の先の方では、いたずらっぽく、次のような事実を指摘しています:\\
 +<​tab>//​「チェルノブイリ事故後、モスクワ政府の医学アドバイザーだったレオニード・イリーン1[(レオニード・イリーンは、旧ソ連の放射線防護責任者(フランスにおけるピエール・ペルランと同等)であり、ICRPのメンバーでもある。日本では福島事故後、山下俊一が同じ役割を果たしている。山下俊一は元WHO放射線防護アドバイザーでもある。)] は、比較的低線量の被ばくは、まったく健康に害がないと繰り返し主張しつづけた。ところが事故前には、自著のなかで次のように述べているのだ:“放射線というものは、比較的低線量であっても、条件反射に支障をもたらし、脳皮の生物学的電気活動を変容させ、細胞や分子レベルでの生化学や代謝上の変化を引き起こすものである。”」//​\\
 +<​tab>​コリンコが暴露するこうした事実が思い出させるのは、事故直後の数々の会議についての、出席者のひとりだったヴァシリー・ネステレンコによる証言です。(参照: http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2003:​etb-137 ).\\
 +<​tab>​放射線被害に対して取られている否定主義政策をテーマにしたら、まるまる一冊の本を書くことができるでしょう。ウラディミール・コリンコやヴァシリー・ネステレンコは、まさにその否定主義の種が撒かれはじめた現場に居合わせた証言者です。また、エリツィン大統領の環境政策アドバイザーだったロシアアカデミー会員アレクセイ・ヤブロコフは、「チェルノブイリとは成長をつづける一本の木のようなものだ」と、ある時語りました。ヤブロコフの念頭にあったのは、とりわけ、汚染地域に住み続けている人々の健康状態が悪化の一途をたどっているという事実でした。チェルノブイリという“木”は、事故によるフォールアウトで汚染された土壌に張った根から栄養を吸収しながら成長しているのです。けれども、その生長が早いのは、枝葉の伸びていくにしたがって、被害を否定する声が口裏を合わせながらどんどん頑なになり、まるで成長を促進する肥料のような役割を果たしているからでもあるのです。放射能の被害を否定することが意味しているのは、何も対策を講じないこと、医療措置をほどこさないこと、測定を行なわないこと、住民を避難させないこと、予算を投じないこと、汚染地帯でますます多発する病気の原因を追求しないこと、そしてこうした無策の政治を正当化するために、さらなるウソを繰り返すことにほかなりません。これはもはやただの肥料とは言えません。チェルノブイリという呪われた木に撒かれる麻薬の混合物のようなもので、その使用量はどんどん増やされ、魔の悪循環に陥っていくのです。つまり被害リスクを否定するので、後遺症は悪化し、後者を合法化するために前者が正当化される、という繰り返しです。\\
 +<​tab>​チェルノブイリ事故の被害として公式に認められているのは、急性放射線障害によるリクビダートル50名あまりの死亡と、放射性ヨウ素の被ばくによる数千件あまりの一般市民の甲状腺がんだけです。しかも後者は、簡単に治癒が可能とされています。そのほかの病気や奇形は、チェルノブイリ事故によって放出された放射能との因果関係を科学的に証明することが不可能だとされ、認められていません。疫病学研究によって実際に明らかにされているチェルノブイリ事故前と事故後とにおける劇的な変化は、放射線防護と影響に関する国際機関[(UNSCEAR (放射線の影響に関する国連科学委員会、1955年発足)と ICRP (国際放射線防護委員会)のこと。後者は1950年に、既存の様々な機関を再編成しながら、イギリス法に基づいて設立された“慈善”目的の協会。ICRP の出す勧告はUNSCEARの報告をベースにしており、WHO、IAEA、EURATOM、またあらゆる国家法のための異議を申し立てる余地のない参照基準となっている。)].にとっては、まったく何の問題提起も表わしていないようです。例えば、この分野の国際権威であるICRP(国際放射線防護委員会)が2007年に刊行した『一般勧告書』103号の中で、チェルノブイリ事故の扱いは、取るに足らないものでしかありません(参照文献を一度引用しているきりです)。つまり疫病学という学問は、放射能汚染が引き起こす多くの住民への影響を評価するには適していないと言うのです。そんなことを信じろというのでしょうか。\\
 +<​tab>​放射能が子どもたちに与える影響について語る前に、まず、リクビダートルたちのたどった運命を忘れてはなりません。彼らは肉体に放射能の深い刻印を受け、[(http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=films-interviews-debats#​le_sacrifice )]子孫の代まで苦しめられています。原発事故の処理作業にあたったリクビダートルたちの総数は80万から100万人だったと考えられます。彼らの労働条件は、事故の経過とともに異なるものになっていきました。爆発直後、現場の放射線量が最高値にあった数週間の間は、彼らの現場への介入はごく短時間の限られたものでした。やがて線量が下がり、リスクが減少していくと、現場滞在時間は延ばされていきました。そして最終的には、通常の原発産業で放射線にさらされながら仕事に携わる作業員の置かれる条件に近い状況が訪れました。\\
 +<​tab>​次に挙げる一連の指令は、当時、できる限り秘密を保持しようという意図のもとに発せられたものです:
 +  * 1986年5月、最も危険な作業に携わった軍人たちは、家族も含めた何者に対しても、その事実について語ることを禁じられた。
 +  * 軍の書類には、1986年6月13日以降の事故現場への介入についてのみが記述された。おそらく事故被害に関する統計を良くみせようとするための措置と思われる。
 +  * 事故被害についてのあらゆる情報を独占する事故処理委員会が設置された。
 +  * それでも足りないというかのように、1987年6月27日、ソ連保健省は民間の医師たちに「事故の処理作業期間に行なわれた医療措置と線量の測定結果に対する秘密を保持すること」という指令がくだされた。;​
 +  * つづいて1987年7月8日には、今度は軍事医療委員会が、軍医に対して「事故処理による健康被害について、また放射線障害を引き起こす基準値に達しない被ばく総量(200ラド以上、つまり2Sv)について言述すること」を禁じた。
 +
 +<​tab>​このように、賽(さい)は投げられる前にすでに細工 されていたのです。そのうえ、作業員たちの受けた被ばく量の測定と記録の仕方が、はなはだ怪しいものであったことは周知のとおりです。同じことを、福島で事故処理にあたっている作業員の多くも、雇用契約の中でかん口令を課されているにもかかわらず、語っています。こうしたありとあらゆる禁止措置や放射線防護に携わる人々による改竄措置によって、ついには、被ばく量と健康被害との間の因果関係を立証することがほとんど不可能にされているのです。\\
 +<​tab>​いくつかの、掘り起こされたらしき部分的な研究も公表されましたが、その結論は説得力に欠け、現状を説明するために紆余曲折した説を延々と述べているだけのものです。  ここで私たちが評価したいのは、事故から20年たった2006年にウクライナの保健省代表アンゲリーナ・ニャグ博士がミュンヘン会議 [(http://​www.physiciansofchernobyl.org.ua/​eng/​Docs/​33_Nyagu_.ppt )] で公開した、悲劇的かつ詳細な被害統計総覧です。(ニャグ博士は、さらに総覧をアップデートしたデータを2011年のベルリン会議で、『チェルノブイリの医師協会』[(http://​www.chernobylcongress.org/​fileadmin/​user_upload/​pdfs/​nyagu.pdf)] を代表して発表しました)。2006年の統計を見てみましょう。恐ろしい光景が見て取れます。:​\\
 +{{ :​tchernobylforever:​sde-01-jp.jpg |}}\\
 +
 +<​tab>​リクビダートルの生き残りの間での身障者の数は増える一方で、十年間の間で三倍にもなりました。身障者たちはまた、最初に死を迎える人々であることも想像できますから、1997年に数えられた者のなかで2006年まで生きのびることのできた人はそう多くないと考えられます。リクビダートルとは、若くして亡くなるものなのです。
 +『調査報告チェルノブイリ被害の全貌』(ヤブロコフ、V・ネステレンコ、A・ネステレンコ)のなかでは、正確に定義を行なった三通りの類似グループにおける悲しい現状が詳細に紹介されています。:​\\
 +{{ :​tchernobylforever:​sde-02-jp.jpg |}}\\
 +
 +<​tab>​国際機関の出す公式の報告書は、こうしたデータについては、一言も触れません。リクビダートルたちの運命とチェルノブイリでの作業との間には何んの関連も考えられないというわけです…。しかしウクライナの最新データは、今でも健康なリクビダートルは、5%としかいないことを報告しています。その彼らが、今後も健康でありつづける保証もありません。チェルノブイリという名の戦争は、何年分もの軍隊の動員を必要としました。しかし、国際機関の言葉をそのまま借りれば、この戦争は、奇跡的にも《戦死者ゼロ》の核戦争の典型例を示してくれたことになるのです。\\
 +<​tab>​リクビダートルたちは、そのほとんどが若者でした。なかには非常に若い青年も混じっていました (徴収兵)。ですから、すぐに健康に異常の現われなかった人々は子どもを欲しいと思いました。世界銀行が発表する人口変動統計表を検証すると、不気味な事実が発見できます。ある国々では、事故によるフォールアウトが少なかったのにもかかわらず、出産周辺期の死亡率に異常な変化が現われているのです。それはリトアニアやラトビアといった国で、これらの国からは、実は非常に多くのリクビダートルが派遣されました。一方、スウェーデンやフィンランドのようにフォールアウトの降下量はずっと多かったものの、リクビダートルとは無関係の国々では、変化はこれほど明白には現われていません。子どもの死亡率の上昇は、リクビダートルたちの受けた被ばくの“おまけ“[(http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2013:​etb-131 Mediapart でも参照可能)]なのでしょうか? この問いに対する答えは今なお出されていません。しかし、リクビダートルの子どもたちの健康状態が、汚染地帯に住む子どもたちよりもさらにひどいという事実が、この問いを肯定しているように見えます。彼らの子どもの間では、奇形の発生率も非常に高く、年によっては一般の5倍から6倍にもなります… その一般市民における奇形発生率自体が、1986年から2006年にかけて、倍増しているのです。もちろんこうした統計は、チェルノブイリとはまったく無関係なわけですが…。国際機関の報告書によれば。\\
 +<​tab>​第一章で私たちは、ベラルーシの汚染の一番の原因はセシウム137であることを見てきました。同じことが、汚染の分布がベラルーシとよく似ているウクライナ北部とロシア南東部にもついても言えます。\\
 +<​tab>​次に、いくつかの数値によるデータをご紹介しましょう。これら三国の汚染地帯で、四分の一世紀にもわたる間猛威をふるってきている健康上の惨劇を、冷淡に、抽象的に描いたものに見えるかもしれません。読者の方々には是非、わが子の命を毎日のように心配しながら生きていかなければならない数十万という家族の運命に思いを馳せていただきたいのです。この子どもたちの学校での成績は、平均を大きく下回ります。一言で言えば、この子たちの将来は、取り返しのつかないくらいに変容させられてしまってしいるのです。それより数は少ないですが、奇形の子どもをもった家族、身障をともなう病気に犯された子どもを持つ家族にも、思いを馳せてみてください。チェルノブイリ事故という惨劇は、こうした個人個人の悲劇が積み重なったものなのです。とてつもない災害であることがわかります。そして惨劇は今なお進行中なのです。\\
 +<​tab>​この問題を扱うときに、一般的に世界で最もよく例に出されるのが、一般小児科の観点から見た健康な子どもと病気の子どもとの割合の変化です。図-1- は、ウクライナ北部のものですが、ベラルーシ全土についても当てはまります。ベラルーシは、放射性ヨウ素を含んでいた初期の放射能雲に直撃され、その規模はセシウム137の汚染図が示しているものを上回ります。セシウムの蓄積は、気象条件によって決定され、雨の降らなかった場所の蓄積量は比較的低いもので済んでいるからです。\\
 +
 +{{ :​tchernobylforever:​sde-03-jp.jpg |}}\\
 +<​tab>​ベラルーシ保健省がチェルノブイリ事故前に記録していた統計によれば、1985年まで、健康な子どもと病気の子どもの割合は上下両極端に開いており、国際平均に近い状況でした。80から85% のベラルーシの子ども は、健康だったのです。その後、健康状態が惨憺たる悪化をたどるなかで、一年間だけ、横ばい状態が現われた時期があります。1989年、事故の残した本当の被害が世間に対して暴露されたことを受けて、その後、行政や独立した活動家たちが放射線防護措置を真剣に実施した時期のあったことを表わしています。残念ながら、こうした防護政策は、1991年のソ連崩壊後に放棄されることになりました。崩壊直前のソ連邦最後の時期には、ウクライナやベラルーシ国内で独立を求めた運動家たちは、チェルノブイリ事故原因の追究を政治的に大いに利用していたのですが、ソ連崩壊後は権力闘争が最優先され、チェルノブイリ問題は二の次にされてしまったためです。\\
 +<​tab>​次に紹介するいくつかの表に読み取れる詳細な情報は、このような政治的背景のなかで考察しなければなりません。[(この問題についての詳細な情報はミシェル・フェルネ教授による次のまとめのなかで紹介されています:\\
 +http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2012:​etb-091.)]\\
 +<​tab>​まず甲状腺がんですが、事故前と事故後を比較すると、事故前に生まれた子どもでは15倍、事故後に生まれた子どもの間では56倍増加しました。子宮内での胎児の低線量被ばくが、発症リスクを4倍まで上げていることがわかります。潜伏期間が4年であることがわかっているため、比較は1970-1990年の期間と1990-2005年の期間との間で行なわれました。甲状腺がんは国際放射線防護界が唯一、チェルノブイリ事故後長年たってようやく、放射能を原因とすることを認めた健康被害です。\\
 +<​tab>​次に子どもの染色体異常ですが、子宮内での被ばく量が10mSvから350mSvに増えると、発生率が倍増します。安定型染色体異常については3倍増になります(Stepanova 2006年)。\\
 +<​tab>​また被ばくを受けた子どもの知能指数カーブは、一般の子どもに比べて10あまりの差があり、知的能力の重大な低下を示しています。この低下は、とりわけ口述テストで顕著に現われます。スウェーデンでチェルノブイリ汚染を受けた地方を調査した同国の研究が、同じくこの影響を実証しています。[(http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​extra/​pdf-divers/​telecharge.php?​pdf=etb-162_en.pdf と\\
 +http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​extra/​pdf-divers/​telecharge.php?​pdf=etb-162_fr.pdf)].
 +<​WRAP>​
 +<​tab>​次の表は、被ばくが少ないグループにおいても健康状態の悪化が起こっていることを表わしています:\\
 +{{:​tchernobylforever:​sde-04-jp.jpg?​450 |}}\\ \\ \\ <​tab>​匿名の女性小児科医が5年間にわたった記録したこの変化は、ウクライナの統計によっても裏づけされています。そして図-1- が示していた一般傾向とも一致するものです。.\\
 +<​tab>​甲状腺における自己免疫障害である橋本病の増加も、注目に値します。これは甲状腺がんに匹敵する深刻な病気です。\\
 +<​tab>​残念ながら、こうした数々のデータを、住民の被ばく量や内部被ばく記録と照らし合わせることはできません。この問題については、後述いたしましょう。
 +</​WRAP>​
 +<WRAP clear></​WRAP>​
 +<​tab>​2012年5月、ガリーナ・バンダジェフスカヤ博士は、下のグラフ集にまとめられる内容の発表を行ないました。 [( 参照 : http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2012:​etb-123.)] 2012年5月12日ジュネーヴで行われた低線量被ばくに関するフォーラムでのことです。[(http://​independentwho.org/​media/​Documents_Autres/​Actes_forum_IW_mai2012_French.pdf)]. これらは最近、ベラルーシ保健省によって公表された公式の疫病学的データです。全人口を対象にしたものもあれば、健康悪化の進行が激しいグループを対象としたものもあります。\\
 + ;#;<​color red >​クリックすると拡大図が見られます</​color>;#;​
 +{{ :​tchernobylforever:​sde-05-jp.jpg?​600 |}}
 +<​tab>​ベラルーシは、旧ソ連の共和国のなかでも最も発癌率が高く、地域の汚染状況に従って初期症状の出現、先天性異常、心血管系疾患の増加が顕著な国であることを確認しておきましょう。\\
 +<​tab>​ここに例をいくつか挙げたような現場で観察される現象とチェルノブイリ事故との間にいかなる因果関係も、国際機関による公式の報告書、なかでも有名なチェルノブイリ・フォーラムが2002年から2005年の間に編集した集大成には認められていないことは、驚くに値しません。唯一の例外は、甲状腺がんなのです。しかもその扱いのもったいぶったことといったらありません。\\
 +<​tab>​しかし実際に、正確な線量の測定値がなければ、数値の相関関係を示すことも不可能なわけです。二十年間にわたって、体系的な住民の内部被ばく測定を実施してきたベラルーシ・ベルラド放射線防護研究所が、住民の医学的データを調査することを禁止されていることもうなづけます。これほど長期間、科学が、意図的ではないにしても壊滅状態に置かれていることは、結果として都合の良い効果をもたらしているのです。チェルノブイリ事故は、住民にいかなる実証可能な健康被害ももたらすことはなかったと、躊躇なく宣言することができるのですから。唯一認められるのは、甲状腺がんの劇的な増加だけである、と。しかしこの事実のうえにさえ、暗雲が漂ってきています。ICRPが2007年に刊行した『勧告』103号のなかで、チェルノブイリに関する資料としてICRPが掲載した唯一の記事は、甲状腺がん患者における線量測定が不確かだというテーマのものです。チェルノブイリ事故が甲状腺がんについてまったく無罪であるとは言えないまでも、責任がそれほど大きいのかどうかは疑問であると主張されているわけです。
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 +~~REFNOTES~~
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 +\\ \\
 +==== 4. ベルラド放射線防護研究所の歴史 ====
 +;#;<fs medium>​ベルラド放射線防護研究所の歴史:その誕生とかけがえのない役割</​fs>;#;​\\
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 +{{:​tchernobylforever:​hb-01.jpg?​200 |}}<​tab>​チェルノブイリ原発事故の歴史のなかで、ベルラド放射線防護研究所の出現は、まるで奇跡のような出来事だと言っていいでしょう。\\
 +<​tab>​ここまでのことを誰が想像できたでしょうか。一人の名だたるエリート科学者、旧ソ連の核軍事戦略プログラムの責任者が、自らの健康も省みずに事故直後の日々、リクビダートルに混じって原発現場で直接立ち働き、国家による危機管理対策を真っ向から非難したのです。自分の勧告する放射線防護政策がことごとく行政責任者に拒絶されても、決して屈服せず、勤務先の研究所では、一刻も早くベラルーシ国内の放射能汚染地図を作成するために、職員らに任務を放棄して、現地の放射能測定に専心するよう頼んだのです。彼はまた、高性能の放射線測定器をシリーズ生産するための国家予算を獲得することにも成功しました。そして、そうした彼の計画を阻止しようとする圧力に生涯屈することなく、ただひたすら国民を放射能から守るために人生を捧げたのでした。このような人物が、福島事故後の日本に現われたでしょうか。また、わが国フランスが同じような惨劇に襲われた場合、どのような沙汰が私たちを待ち受けているかは、おおよそ想像ができます…。
 +
 +++++続きを読む.|
 +<​tab>​以上が原子力物理学者ヴァシリー・ネステレンコが、チェルノブイリ事故後にたどった軌跡の概要です。彼自身が2003年に記した自己顕示欲とはまるで無縁の飾り気のない回想記は必読です:\\ http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2003:​etb-137.\\
 +<​tab>​確かに当時のソ連の状況では、ミハエル・ゴルバチョフが進めていたグラスノスト(情報公開)とペレストロイカのもとで、あらゆる行動が可能になりつつあったのは事実です。ヒエラルキーの上層部は瓦解しつつあり、共産主義体制によって三世代にわたって抑圧されてきた個人が自ら行動を起こす精神にとっては、格好の芽生えの条件がそろっていたと言えます。そして何よりも、ソ連社会には当時まだ、集団の利益を最優先する精神が染みついていました。こうした当時の特殊な社会状況と、チェルノブイリ事故後のソ連邦内で起こった科学者たち一同の自発的な行動とは無縁ではありません。“チェルノブイリの戦い”に大々的な軍の出動が命じられた一方で、事故がもっとも危機的な状況にあった頃、そのかたわらには、ヴァレリー・レガソフや彼の補佐官のような原子力安全に携わる国家の責任者や、ゴルバチョフの科学アドバイザーだったエフゲニー・ヴェリホフのような 高位の原子力物理学者たちの姿があったのです…。\\
 +<​tab>​彼らは決して逃げ出したりしませんでした。祖国が、聖ロシアが危機に瀕していたのです。\\
 +<​tab>​また何よりも一番の危険に敢えて立ち向かったのは、ウクライナの数学者ウラディミール・チェルノウセンコのような、原子力産業や原子力物理学とは無関係の科学者たちでした。チェルノウセンコは、石棺の建設を任された1500人から成るグループのコーディネイトに携わった結果、リクビダートルの多くと同じように自らの健康を台無しにしてしまいました。事故危急時の頂点が過ぎ去った後に注目すべきなのは、数々のアカデミー会員や教授、研究所や実験所の所長が、全面的に現場の調査に乗り出したことです。ここに何人かの名を紹介しましょう:
 +  - ドゥミトゥロ・グロジンスキー[( ドゥミトゥロ・グロジンスキーは第3章註6で言及されているアレクセイ・ヤブロコフ、ヴァシリー・ネステレンコ、アレクセイ・ネステレンコによる著書(和訳は岩波書店『チェルノブイリ被害の全貌』)の序文を書いています。)]は、放射能汚染が実際にどのような経路で人間のもとにたどりつくのかを調査し、その結果ICRPの使用しているモデルに疑問を呈しました。
 +  - 最近亡くなったエフゲニー・コノプリヤは、ベラルーシ科学アカデミー会員の放射線生物学者でしたが、内部被ばくの特徴を明らかにしました。
 +  - そのほか多くの学者が科学的、医学的研究を発表していますが、UNSCEARの参照文献としては、まったくといっていいほど取り上げられることはありません。
 +  - 4. またこうした学者の指揮のもとで、数々の研究グループが、チェルノブイリ閉鎖区域にはじまり、汚染の少ない地方にまで活動を広げていきました。
 +<​tab>​もう一人、名だたる人物を忘れてはなりません。ミンスク市にあるベラルーシ科学アカデミーの遺伝 細胞学研究所付属遺伝安全実験所のローザ・ゴンチャロヴァ所長です。ゴンチャロヴァ教授は、早くも1986年にセシウム137がゲノムの不安定に与える影響を長期間にわたって研究するための費用を取得し、11年間にわたってハタネズミ22世代を対象にパイオニア的な研究を行いました。その結果彼女が明らかにした事実は、実に不穏なものです。環境内の放射線量が減少しても、ゲノムの不安定は世代ごとに大きくなっていくことがわかったのです。しかし、彼女が研究を続行するために必要としていた費用は、1998年に打ち切られてしまいました。\\
 +<​tab>​以上紹介したような特殊なコンテクストのなかにおいても、ヴァシリー・ネステレンコの存在は傑出しています。彼は研究所を辞任し、一部支配者層による最初は無理解、後には敵意に真っ向から立ち向かい、自らの知性とエネルギー、能力のすべてを、一番の犠牲者である子どもたちを守るために捧げたのです。子どもたちを守ること、それがもっとも優先されるべき事項であり(今でもそうです)、彼はそのためにはあらゆる危険を冒しました。高位の科学技術界エリートたちのなかで、ここまでの方向転換を行う勇気があったのはネステレンコ以外にはいません。彼たった一人です。\\
 +<​tab>​私たちのプロジェクト作品『永遠のチェルノブイリ』には、ヴァシリー・ネステレンコという人物が、チェルノブイリ事故後、命綱もなしに挑んだ闘いを描いたウラディミール・チェルトコフ[( この映画は、チェルトコフの著書『チェルノブイリの犯罪』(和訳は2014年に緑風社から出版予定)からの抜粋からおもに構成されsています。\\ http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=bibliographie#​le_crime_de_tchernobyl_le_goulag_nucleaire)]による記録フィルムが収められています。\\
 +<​tab>​それではベルラドの行ってきたこととはどんなことなのでしょう? なぜベルラド研究所はかけがえがないだけではなく、不可欠な存在なのでしょうか?\\
 +<​tab>​ネステレンコ自身が2003年に回想記を記した後も、ベルラド研究所は常にぎりぎりの資金、国家権威から課される制約にもかかわらず、活動を続けてきました。\\
 +<​tab>​ここで、ヴァシリー・ネステレンコの活動とベルラド研究所の創設へとつながった出来事の簡単な経緯を紹介しましょう。これは2003年の回想記と2005年に加筆された英語版回想記[(http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2003:​etb-137)]を、覚書を兼ねて要約したものです:\\
 +<​tab>​1986年4月28日から9月にかけて:チェルノブイリ事故による放射能汚染の実態を確認。火災中の原子炉を上空からヘリコプターで視察して[( ネステレンコが火災中のチェルノブイリ原発上空をヘリコプターで視察したときの機内の放射線量は3から4 Sv/h でした(一時間半で致死量に達するレベルです)。)]、リクビダートルたちがさらされる放射能リスクの評価を行う。ソ連の行政諸機関(共産党中央委員会、保健省、農業省、気象庁 ―当時は事故処理委員会会長のユーリ・イズラエルが長官だった ―)およびベラルーシ政府に対して、原子炉周辺100キロ圏内における安定ヨウ素剤の配布と住民避難を勧告。ベラルーシ国内のセシウム、ストロンチウム、プルトニウ汚染地図を作成。これらの地図は、ベラルーシ政府によってソ連行政諸機関に送付されました。しかし、同僚科学者たちからも支持されていたヴァシリー・ネステレンコによる放射線防護のための勧告は、どれも実施されることはありませんでした。唯一の例外が、五月初めに行われた原発30km圏の完全避難と、ゴメリ地方に住む数十万人の子供の五月から九月にかけての一時避難、そして毎時50μSv、つまり年間0.44Sv 以上の被ばくにさらされていた住民2万4600人の九月の追加避難です。\\
 +<​tab>​1987年初頭に要請したモギリョフ近郊の50の村[( これら50の村の一部に当たる27村のリストから、1990年はじめに11村が住民の帰還を完全にあきらめさせるために地中に埋められました…。)] の追加避難は、政府に拒否されたうえに、共産党のいくつかの機関の解任につながり、同年三月にはベラルーシ科学アカデミー長官ニコライ・ボリセーヴィッチ [訳注:ネステレンコの後押しをしていた] が更迭されることになり、七月にはヴァシリー・ネステレンコ自身が核エネルギー研究所所長のポストを罷免されることとなったのです。\\
 +<​tab>​この期間、ネステレンコはそれぞれ250ページからなる四巻本相当の計測データや手紙、報告書、要望書等を様々な所管官庁に送り続けました。しかしチェルノブイリに関するあらゆる情報が、1989年春まで国家機密扱いとされていたのです。\\
 +<​tab>​1989年はじめ、家畜の間での疫病がスキャンダラスな状況に達したこと、子どもたちの健康状態が急激に悪化しはじめたことが原因で、機密扱いは解除が余儀なくされたのでした。その結果、プラヴダ紙がソ連の放射能汚染地図を公表できるようになっただけでなく、1990年には、ネステレンコが保管していた上述の書類の一部を、雑誌『ロドニク』[(http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-1990:​etb-164)] が発表することが可能となりました。このことによって、チェルノブイリ事故の危機管理に携わっていた国家諸機関の重大な責任が暴露されることとなったのです。当時の政治責任者にとっては、こういった書類の公開は手ひどい侮辱に感じられたことでしょう。\\
 +<​tab>​このような一連の展開によって、ネステレンコは、ベラルーシ国家の放射線防護プログラムを任せるのに十分信頼をおける適役者と見なされるようになっていきました。一方、政治責任者たちに対する国民の信頼は、彼らの無責任な事故危機管理の実態が暴露されたために地に落ち、その結果、政治責任者らは、ネステレンコが放射線防護活動を実施するために必要とするものを許可し、少なくとも彼が足掛りをつくれるための費用を拠出せざるを得なくなったのでした。\\
 +<​tab>​このような状況のなかでネステレンコはしかし、自分が国家権力者らの矢面に立たされる立場に置かれたことも承知していました。自分が担ぎ出されたのは、世論がネステレンコの警告を権力者たちが無視し、勧告を撥ね退けてきたことを知ったためであり、そうした権力者連中は、今はネステレンコに良い顔を見せ、協力をせざるを得なくなっているものの、遅かれ早かれ、自分を攻撃の的にするだろうと予想していたからです。ネステレンコはしかし、自分の敵は、無神経な官僚や世論の信頼を失った政治家だけだと信じていました。そのために、心の中で、自分の姿勢を確固たるものにしていく余裕を得たのでしょう。ところが実際には、当時のネステレンコが知る由もなかった背景が存在しました。それは、1986年4月28日に事故が公式に認められると、間髪入れる間もなく、国際放射線防護の最高位の責任者たちが、ソ連政府に対して助言を行なっていたということです。“国民に対しては雨水を飲むことを控える以外の注意をする必要はない”“食品の放射能汚染検査だけを行なえばよい”といった勧告で、これは現実の必要に即して行なったというよりは、とりあえず何かしら行動を取ったという姿勢を見せるためのものだったと思われます。こうした国際放射線防護界の責任者らもまた、自分たちのアドバイスが引き起こすことになった大惨劇の実態が暴露されたことに対して無関心ではいられなかったはずです。 彼らは、いかなる場合にも自分たちが責任追及されることのないよう、被害をなかったことにする政策を着々と準備しているところでしたから、それが、ネステレンコが間違いなく収集するだろう反論の余地のない現場からのデータのせいで妨害されることがあっては決してならないと考えていました。すでにネステレンコの非凡な能力と勇気、決意、そして無私無欲な仕事ぶりは証明されていたのですから、野放しに活動させておくには、あまりに危険な人物でした。\\
 +<​tab>​ネステレンコの予想できなかった事実がもうひとつあります。それは科学者たちの嫉妬です。チェルノブイリは、出世欲に満ちた日和見主義の科学者にとっては、無名状態から抜け出し、あたかも人道主義者であるかのように見せかけるスポットライトを浴びる絶好の機会を提供したのです。こうした連中もまた、ネステレンコの信用を完膚なきまで叩きのめし、彼の仕事を徹底的に否定しようと決断しました。2011年3月11日に日本で福島原発事故が発生し、ベルラド研究所のノウハウが何よりも必要とされたときですら、すかさず彼らは、現地で自分たちの足場を固めるために、故人に対する誹謗中傷を行なうことをはばからなかったほどです[訳注:ネステレンコは2008年死去]。\\
 +<​tab>​逆にネステレンコが百も承知していた障害がひとつあります。2003年と2005年の回想録のなかで彼はそのことについて言及していますが、それは経済上の制約です。ベラルーシ国家には、避難の行なわれなかった汚染地域全体に対して効果的な放射線防護を継続して行なう経済力がないことを、ネステレンコは承知していたのです。そこで彼は、事故の責任を負うソ連が費用の一部を負担するべきであること、また国際社会が援助を行なうべきであることを訴えました。そして国際社会は、実際に援助を行なうことになりました。その際に全面的な助言を行なったのは、国際機関の“放射線の防護者”とアシスタントたち だったのです。そのひとつがCEPNです。CEPNとは、四つのメンバーからなる組織ですが、その顔ぶれは、EDF(フランス電力)、アレヴァ社、CEA(フランス原子力エネルギー委員)、そしてIRSN(フランス放射線防護原子力安全研究所)であり、CEPNの本部も、CEAのパリ近郊フォントネー・オ・ローズにある施設内に置かれているのす。また彼らの事務局長 [訳注:ジャック・ロシャール] は、現会員が新会員を選考する制度の“幸運なめぐり合わせ”から、ICRP第四委員会の委員長と同一人物、つまり委員会の勧告を実地に適用することを任されているその人なのです。ICRPの教条とは、最適化を基本としており、現時点の支出を最小限に抑えながら、将来、数値化は不可能であるものの、“等価”であると見なされる健康上の特典を約束することです。支出を最小限に留めることは、欧州委員会がなにかしらの人道的なふるまいを見せるときに最も重視している要素でもあります。それが、1996年から2003年の間に実施された「エートス」、後の「コール」プロジェクトです。これはCEPNの指揮のもとで、数の余っている大学の社会学者や心理学者(常に何かしらの契約にありつこうと飢えている例の面々)の一団に任された一種の心理・文化プログラムです。この一団が、ベルラドの仕事に先んじなければならないと決定された地域に派遣されたのでした。\\
 +<​tab>​さて、話をチェルノブイリに関する機密解除の時代に戻しましょう。当然の結果として、当時、様々な障害が解消されることになりました。たとえば追加の住民避難(1990年から1993年にかけて14万人)が実現され、除染作業のために新たに20万人のリクビダートルが動員されました。\\
 +<​tab>​ミンスクでは食品用放射能測定器300台が生産され、ロシアからは別のモデルが4000台支給されました。\\
 +<​tab>​こうした状況のなかで早くも1989年春には、[物理学者でノーベル平和賞受賞者の] アンドレイ・サハロフ、[チェス世界チャンピオンの] アナトリー・カルポフ、そして[作家の]アレス・アダモヴィッチがヴァシリー・ネステレンコに、政府から独立した立場の放射線防護のための施設を立ち上げるべきだと奨めたのです。ベルラド研究所が着想されたのでした。計画は、ベラルーシ政府の指導者V・ケービッチの支持も受けました。施設はまず放射線防護科学・実践センター、略称「ラディオメートル」という形で発足しました。その目的は、良質で安価な放射能測定器の生産、国民への放射線防護に関する情報知識と教育の保証、そしてベラルーシ国内のチェルノブイリ事故による汚染地域における食品の放射能測定を行なうための非政府システムの確立でした。ソビエト最高会議の同意も求められました。やがて1990年の終わり頃、ラディオメートルは私営の企業として再編成され、ヴァシリー・ネステレンコは、これを放射線防護研究所BELRADと命名したのです。\\
 +<​tab>​ベルラドは「ソスナ(ロシア語で松という意味[(7) ネステレンコが移動式原子炉「パミール」開発計画を指揮していた核研究所は、ミンスク市近郊のソスニーという自治体内にあります。“ソスニー”というロシア語は“ソスナ(松)”の複数形です。)])」という名の放射能測定器を開発し、30万台以上が三つの工場で生産されました。さらに、ベラルーシ農業省と共同体同盟のために、感度の非常に高いRUG-92を開発し、1000台が生産されました。\\
 +<​tab>​1989年、チェルノブイリ政府委員会 (Comtchernobyl)は早くもラディオメートルに地域放射線管理センター(CLCR)のネットワークを発足させ、これを運営することを委任しました。1990年から1992年にかけて、ベルラドは370箇所のCLCRを立ち上げ、軌道に乗せました。最初の40箇所のための資金を提供したのは、アナトリー・カルポフの協会です。この時代、測定器の生産と、CLCRによって得られた情報の拡散を財政的に支えたのはチェルノブイリ政府委員会でした。この時代は…。\\
 +<​tab>​1990年から1996年にかけてネステレンコは、ベルラドのメソッドを改良していきました。\\
 +<​tab>​家族に放射線防護教育を施し、農家に農作についての有益な情報を与え、最大限の食品の放射能を測定していたにもかかわらず、内部被ばくのレベルが非常に高いものであり続け得ることが早くから判明していたからです。ユーリ・バンダジェフスキー学長のゴメリ医科大学と密接に協力するようになると、ネステレンコは、住民の内部被ばく量が50Bq/​kg を大きく超してしまうことが多いことに気づきました。子どもの内部被ばく量がこの値を超すと、体調の悪化につながることをバンダジェフスキーは記録していました。子どもたちの放射能に対する感受性が、放射性ヨウ素131による初期被ばくのショックのせいで高くなってしまっていたためです。\\
 +{{:​tchernobylforever:​hb-02.jpg?​300 |}}<​tab>​ネステレンコは、椅子型の人体用放射能測定器を搭載した移動式測定所を考案しました。これを使って、特に子どもを対象とした集中的な内部被ばく測定プログラムを、主に学校教育の一環として立ち上げたのです。同時にネステレンコは、体内に取り込まれた放射性要素の排泄を促進し、電離放射線によって放射されるフリーラジカルから体を防護するにはどうしたら良いのか、研究を続けました。\\
 +<​tab>​その結果、1997年、ちょうどベラルーシ保健省から認可を取得したばかりのウクライナ製の栄養サプリメント「ヤブロペクト」の配給を始めたのです。[( 彼はウクライナ製の適切な椅子型測定器を七台入手しました。これらは今でも使用されており、市場に出回っている大方の設備よりも正確で信頼度の高いことが明らかにされています。キャリブレーションは毎年放射性のマネキンを用いて点検されています。)] ​ [( この部分は、ベルラド研究所が発行している報告書の2005年第28号 ​ http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2005:​etb-115 で参照可能)の非常に充実した内容を要約したものです。 )]
 +翌年、ベラルーシのルカシェンコ大統領から、同質のプレパラートをベラルーシで生産する許可を得ました。ベラルーシの実験所は、自らは傍観に徹しながらもこの計画に同意を表明し、ネステレンコはドイツの実験所の協力のもとに、今日「ヴィタペクト」の名で知られ、世界中で使用されているりんごペクチンベースのサプリメントを開発したのです。そしてまさにこの年[( 1999年12月、ユーリ・バンダジェフスキーは汚職を理由に八年間の禁固刑を宣告されました。邪魔な人物は一人また一人と力を奪われていったわけです。)]から、ネステレンコは、ベルラド研究所を抹殺することを目的とした数々の策謀によって苦しめらることとなっていったのです。陰謀の片棒を担いでいたのは、エドムント・レングフェルダー[(チェルノブイリを利用して名を挙げたエドムント・レングフェルダーは、オットー・フーク研究所を設立し(同研究所はICRPに所属していました)、甲状腺がんを治療するための協力を申し出ました。彼は大きな影響力を持つ人物で、数十の企業、政治機関や団体から資金を得ています。こうした国々の指導者たちに良い顔を見せるため、レングフェルダーは、プーチンのグルジア戦争を公けに肯定しただけでなく、2010年12月のベラルーシ大統領選挙においては、欧州が派遣した選挙監視委員会に認められているかのように思わせながら、選挙が「公正」に行なわれたと公けに保証し、反政府勢力によるデモを徹底的に糾弾しました。欧州による「エートス」また「コール」プログラムにおいても、ベルラドを抹殺する目的で、報酬を得て積極的な役割を果たしています。)] というドイツ人の放射線セラピストでした。どうやらこのドイツ人医師は、ベラルーシにおけるチェルノブイリ事故影響の研究に関する独占権のようなものを手に入れることを熱望していたようです。その野望を実現させるためには、ベルラド研究所の仕事が邪魔だったのです。その間にもネステレンコは、国の定めた公式の放射能汚染基準値が高すぎると公けに非難を続けていました。第1章で述べたように、それは科学的に裏付けされた批判でしたが、ベラルーシ大統領にとっても、そのほかの国家責任者たちにとっても、ネステレンコによる批判は、うるさい以外のなにものでもなかったのでしょう。いいかげん、彼を黙らせろ…。\\
 +<​tab>​ネステレンコに充てられる予算が大々的に削減されていっただけでなく、嫌がらせや脅迫が加わるようになりました。2003年には、地域放射能管理センター(CLCR)は、もはやベラルーシ国内に56箇所しか残されていませんでした。2005年には19箇所、そして現在はわずか十箇所に及びません…[( 正確には九箇所で、それぞれが非政府組織に支えられています。独立の立場で放射線を管理するための公的資金は、今日ではひとつとしてなくなってしまいました。子どもたちは学校でこうした機材の操作法を学び、自分たちが住んでいる村の放射線防護に寄与しています。)]…。ベルラド研究所に対して行なわれた最も危険な攻撃は、2007年一月、エドムンド・レングフェルダーが、“ネステレンコは原発ロビーのために働いている”と中傷する報告書を自ら所長を勤めるオットー・フーク研究所の名の下で発信したことに引き続いて起こりました。2007年6月25日、ベラルーシ最初の原発建設の指揮をルカシェンコ大統領はネステレンコに依頼しますが、ネステレンコはこれを拒否します[( ベラルーシに原発を建設する計画は、2008年8月のヴァシリー・ネステレンコの死をもってして、ようやく形を取ることになりました。資金と建設はモスクワが請け負い、建設は着工されました。)]。すると大統領は、次のような至上命令に署名を行なったのです: **「個人独裁の私企業である“ベルラド放射線防護研究所”と(中略)この企業が犯している違反に対する“黙認による共謀者”を法的に裁くために必要な手段を取ること。」**. ヴァシリー・ネステレンコは、反撃を試みるために余力をふりしぼりましたが、ついに精根尽きて、翌年に他界しました。\\
 +<​tab>​私たちは、レングフェルダーの陰謀を、彼が2011年日本に対して協力を申し出ながら、同時にベルラドの中傷を行ったことを機に告発しました。以来、彼は2007年に拡散させた中傷文書をオットー・フーク研究所のデータベースから削除していますが、私たちは、この文書を当サイトの資料集(2007年の項目)にアップしてあります。ボーナス代わりにコメント[( http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2007:​etb-165)]も添えて。\\
 +<​tab>​ベルラド研究所の仕事は、他に例のない重要なものです。 **しかしその資金は削減されつづけ、この九年来は完全に国外の個人による支援に頼っています** (最後に行なわれた公的資金による援助は、2005年、ミンスクの日本大使館によるものでした)。現在では、ベルラド研究所は活動を入念に選別して行なうことを強いられています。そのため、2007年に汚染地帯に住む子どもたちの体内被ばくを表わす二通りの地図[(http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2010:​etb-065)]を完成させ、最もリスクの高い村を優先させることにしています。この数年間、ベルラド研究所による年毎の体内被ばく測定による追跡検診を受けることができている子どもの数は、およそ2万5千人です。これは、汚染地域に住む子ども全人口の8% に過ぎません。\\
 +<​tab>​18年間にわたって、ベルラド研究所は、46万件の体内被ばく測定値を収集してきました。約40万件の食品汚染測定値とともに、これは世界でもほかに例のないデータベースです。\\
 +<​tab>​2003年にはまた、放射線防護のための手引書を発行しました。2011年九月には和訳され、ベストセラーとなりました。2012年にはフランス語訳が『原子力事故後』[( http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=bibliographie#​apres_l_accident_atomique_guide_pratique_d_une_radioprotection_efficace )]というタイトルで、2013年、14年には、英語訳、ドイツ語訳、ノルウェイ語訳が次々と出版されています。.\\
 +{{:​tchernobylforever:​hb-03.jpg?​300 |}}<​tab>​2011年三月末、ベルラド研究所は即座に日本の様々な協会や科学者に手を差し伸べました。そして連帯感の印として、ヴィタペクト2カートンを送ったのです。以来、情報交換は絶え間なく続いています。活動家、ジャーナリスト、科学者、そして日本人医師たちによるミンスク訪問、ベルラドの日本への調査旅行。ベルラドは、日本の人々がどのような措置を取るべきか指示を与えるだけでなく、何よりも、国際機関が流すニセの情報や日本政府がとる不適切な政策に対して、日本国民がどのように防衛したらいいのか、しっかりした情報を伝授することができるのです。\\
 +<​tab>​残念ながらベルラド研究所は、この一年間、ベラルーシ国内の生活費高騰と増税を原因とする経済的な大きな変化に直面しています。\\
 +<​tab>​ルカシェンコ大統領は選挙公約で、公務員の増給を約束しました。最近では、三人のベルラド研究所職員(全職員の10% に当たります)が、生活苦のために辞職をせざるをえませんでした。研究所の財政状況を至急改善し、その間に、研究所のための最大の財政的また精神的支援機関である「チェルノブイリ/​ ベラルーシの子ども協会」は、ベルラド研究所を維持していくための活動の環をひろげる道を探っていかなければなりません。ちょうど2001年に研究所が財政破綻の危機にさらされたとき、ヴァシリー・ネステレンコの助けを求める声に応じたのと同じように…。
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 +==== 5 -  「チェルノブイリ/​ベラルーシの子ども協会」とベルラド放射線防護研究所 ====
 +;#;<fs medium>​『チェルノブイリ/​ ベラルーシの子ども』協会とベルラド研究所: 長期にわたる協力関係</​fs>;#;​\\
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 +<​tab>​ソランジュとミシェル・フェルネ夫妻。妻は一途のエコロジストで、欧州議会議員、夫もフィールドで活躍するエコロジスト、鳥類学に心酔するバーゼル大学医学部教授。1986年4月26日を堺に、二人は、多くの人々と同様、チェルノブイリという「機械仕掛け」の操作にかかわるようになっていきます。1993年頃から数々の医師、リクビダートル、多岐にわたる科学者たちの会合に出席し、1995年のある会議で、ヴァシリー・ネステレンコとベルラド研究所に出会うことになりました。
 +{{ :​tchernobylforever:​etbb-01.jpg?​600 |}}
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 +++++続きを読む|
 +<​tab>​ヴァシリー・ネステレンコは当時、ペクチンにビタミンや抗酸化物質(電離放射線が体内に放出するフリーラジカルやいくつかの化学的毒物に対する防護のため)を加えたサプリメントを選抜するための研究調査を重ねているところでしたが、ミシェル・フェルネはその仕事を間近で見守ることになりました。ペクチンという栄養サプリメントに対しては、無知や悪意(またもやレングフェルダーによる…)からさまざまな批判が浴びせられていますが、ネステレンコの研究は、その一つ一つを理路整然と論破していきました。[(第四章、註8参照 )]\\
 +<​tab>​以来、フェルネとネステレンコのコンタクトは途絶えたことがありません。それは二国間の交流に留まらず、旧ソ連をはじめとする世界の医学及び科学界の医師、科学者、ジャーナリストなど、チェルノブイリ事故が人間と環境にもたらした被害の調査、それに対処する研究のために動員されたあらゆる責任者との密接な情報交換となったのです。両人が主催、参加、発言を行なった討論会や勉強会は数知れません。二人の出会いはまた、ウラディミール・チェルトコフ監督 ​  ​が率いるスイステレビの撮影班との間に素晴らしい協力関係を築いていくことにも役立ちました。[(エマヌエラ・アンドレオリとの共同監督作品一覧:『チェルノブイリの我ら』 - 54分、 TSI 1991年 、 『核の罠』 - 47分、 TSI 1999年 、 『ユーリとガリーナ・バンダジェフスカヤ』 - 30分、 2000年 、 『サクリフィス』 - 24分、 Feldat Film 2003年 、 『核論争』(邦題『真実はどこに?』 - 50分、 Feldat Film 2004年 、『ヴァシリー・ネステレンコ』 -19分、 Feldat Film 2008年.。全作品が当サイト上で閲覧可能。)].\\
 +<​tab>​ソランジュ・フェルネが最初の大きな貢献をもたらした国際的な活動は、1996年4月12日から15日にかけてウィーンで行なわれたチェルノブイリ人民法廷です。事故が環境、健康、そして人権に対して及ぼした結果を裁くことを目的としており、アイルランド「チェルノブイリ・チルドレン・プロジェクト」 会長アディ・ロシュとの協力のもとに実現された秀逸な企画でした。裁判の一部は英語、フランス語[(http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-1996:​etb-097)]、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、そして二年前には日本語 [訳注:緑風出版『チェルノブイリ人民法廷』] に翻訳されています。\\
 +<​tab>​しかし初めての活動ということもあり、それはごく短期間の、完璧とは言いがたいもので、多くの著名人や重要な貢献者に残念ながら日の当たらないまま終わりました。このことからもわかるように、大勢の人間の力が結集して起こる活動とは、棚からボタ餅が落ちてくるように発生するわけではないのです。長い時間をかけて、人々が互いに知己を得、認め合い、信頼の糸が織り成されていく中で共同作業は温められ、成長していきます。はじめはささやかなレベルでの協力が行われ、やがてそれは大きく翼を広げていくでしょう。そして状況が求めれば、人々は持ちうる限りの能力を発揮するようになるのです。この時点で取捨選択が行なわれます。十分なモチベーションのない人間は脱落していくからです。\\
 +<​tab>​ベルラド研究所とETB (チェルノブイリ / ベラルーシの子ども協会)とは、恒久的となることが約束される援助を互いに提供しあいながら成長してきました。両協会の歩みは、後戻りが許されないとう意味で、歴史的なものです。一方がつまづき、活動を遵守できなくなったとき、もう一方は存続の危機にさらされるくらいの打撃を受けるからです。さらに双方に影響を与える損害は、将棋倒しにそれぞれのパートナーをも巻き込んでいくでしょう。チェルノブイリ事故の被害に苦しむ子どもたちにとって、それは計り知れない損失を意味することになります。\\
 +<​tab>​2001年4月27日に「チェルノブイリ / ベラルーシの子ども協会(ETB)」を創設するために集まった人々は、すでに六年間の歳月にわたって互いを知り、同じ信念を分かち合っていました。それは、チェルノブイリ事故によって人生を変えられた人々でした。彼らは自らの経験とエネルギーを尽くして、当時すでに事故と向かい合っていたのです。彼らの共通の信念とは、人間の持ちうる最大限の知性を敬うこと、そして同時に、人間の手によってもたらされたこの被害の規模を理解し、食い止めるために、謙虚な姿勢を保たなければならないということでした。彼らは今一丸となって、嘘と隠ぺいの使者らがひろめる否定主義を打破するべく、果てしない捜査に取りかかったのです。彼らの挑まなければならない相手とはまた、往々にして傲慢と怠慢、愚かさにどっぷり浸かりながら、この否定主義に媚びる信者たちでもあります。\\
 +[{{:​tchernobylforever:​etbb-03.jpg?​300 |//​パリ・トロカデロでインディペンデントWHOが企画した展示会(2010年4月24~26日)//​}}]<​tab>​ソランジュ・フェルネは、ひとつの象徴的なアクションを思いつきました。その意味合いは今でも色褪せていません。彼女は、亡くなったリクビダートルたちの肖像写真を大量に集めたのです。多くは簡単な身分証明用の白黒写真でした。一千枚以上の写真が引き伸ばされ、スタンドに立てられて、一般に公開されました。氏名、生年月日、死亡年月日を見ると、いかに彼らが若くして命を奪われていったのか、一目瞭然でした。肖像写真を目にした人々は、衝撃を受けてその場を立ち去っていくのでした。\\
 +<​tab>​1990年代末頃、ベルラド研究所をめぐる状況は憂慮すべきものとなっていく一方でした。ベラルーシ政府から支給されていた予算はゼロに近づいていました。放射線防護の国際諸機関やレングフェルダーのような人物の働きによって、公的援助だけでなく、時によっては外国からのプライベートな援助も侵害されていったのです。ユーリ・バンダジェフスキー、ガリーナ・バンダジェフスカヤとそのチームによる実り多き共同作業も突然座礁してしまいました。ゴメリ医科大学[(ユーリ・バンダジェフスキーの研究の一部は、ベルラド研究所の助けを受けて刊行されました。以下のリンクよりデジタル版の閲覧が可能: http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​extra/​pdf-divers/​telecharge.php?​pdf=etb-94.pdf )]学長ユーリ・バンダジェフスキーが逮捕され、汚職の判決を下されたのです。またベルラド研究所の放射線防護メソッドとヴィタペクトの使用の信頼性を失墜させることを目的とした刺客のごとき論争が猛勢をふるっていました。ついには、EUから支援を受けたエートス・プログラム[(http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2003:​etb-050\\
 +http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2013:​etb-133\\
 +http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2013:​etb-132 )] がベラルーシの一地方で活動をはじめた結果、住民の健康状態は証明可能なくらいに悪化した一方で、ベルラド研究所は蚊帳の外へ追いやられてしまったのです。\\
 +<​tab>​21世紀の幕開ける頃、ベルラド研究所の資金は底をつき、ヴァシリー・ネステレンコは、外国のあらゆる友人たちに助けを求めるほかありませんでした。この時、ソランジュ、ミシェル、そしてエチエンヌ・フェルネ、ウラディミール・チェルトコフ、そしてガリア・アッケルマンらがフランスで、「チェルノブイリ/​ ベラルーシの子ども協会」を創設する決意をしたのです。ベルラド研究所所長であるヴァシリー・ネステレンコは、協会の形式的な副会長におさまることになりました。協会創設の目的は、ベルラド研究所を支えるための資金を集めることと、汚染地域の健康被害に関するすべての真実を世に伝えることです。また、放射能に対してもっとも弱い子どもたちを守ることが、このパートナーシップの最優先事項とされました。\\
 +<​tab>​しばらく後には、集まった資金の一部(5%)が、ベラルーシ国立科学アカデミー遺伝安全研究所に充てられることになりました。公的資金では禁止されている外国の最新機器の購入を可能にするためです。この寄付によって同研究所は、チェルノブイリ被害についての遺伝や遺伝周辺に関する最先端の研究を続け、アカデミー指導部に対して信頼性を保ち、大きな国際科学会議の場でその存在をアピールし続けることができるようになりました。 チェルノブイリ事故がもたらした遺伝子被害は、もちろん子どもたちの放射線防護対策と切り離すことはできません。これは次の世代を守るという意味でも、私たちの大きな行動要因です。\\
 +<​tab>​こうした財政支援の確保と平行して、ミシェル・フェルネは非常に広範な戦略的意味を持つ企画を始動させました:ユーリ・バンダジェフスキーとその共同研究者たち、またヴァシリー・ネステレンコの手による主な研究を、英語のピア・レビュー誌に出版することです。これは二つの大きな意味を持つ賭けでした。一つ目は、科学者の一人であるユーリ・バンダジェフスキーの研究の重要性を世に知らせ、彼を釈放に導くために科学界の関心を呼び起こすこと[(http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2004:​etb-088\\
 +http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2004:​etb-036 )]。もう一点は、体内に取り込まれたセシウム137の排出を促進するペクチンの効果をめぐる論争に決定的な援護射撃を行なうこと。\\
 +<​tab>​ペクチンに対する批判は激しく、その効果を証明するには細心の注意を払った方法論を用いることが必須でした。ヴァシリー・ネステレンコとミシェル・フェルネは、二重盲検法を用いた実験手順(プロトコル)を作成し、イタリア、イスプラの核研究所[(ミシェル・フェルネ及びヴァシリー・ネステレンコ教授がイタリアのイスプラにある核研究所を訪れた最大の目的は、ペクチンベースの錠剤の特性を評価することでした。下記のリンクに報告書があります:
 +http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2002:​etb-167 )] から承認を受けました。実行に移されたのは2001年の6月です。保養のためサナタトリウムに滞在する32名の、セシウム137による被ばくを受けた子どもたち二組のグループが対象となりました。完全に汚染されていない食事が提供される中、第一グループにはヴィタペクトが、第二グループにはプラセボ(擬似薬)が配られました。結果はヴィタペクトの効果を有意に示すもので、2004年、ピア・レビュー誌『スイス・メディカル・ウィークリー』上に発表されました。[(http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2004:​etb-124 フランス語訳は下記のリンク:
 +http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2004:​etb-088 )].\\
 +<​tab>​しかし「チェルノブイリ/​ ベラルーシ子ども協会」(ETB)が創設されて五年も経たないうちに、最初の大苦難が訪れたのです。ソランジュ・フェルネが他界し、ミシェル・フェルネの健康状態は危機的なほど悪化しました。この時、私たちと親交のある協会で、1993年以来、主にウクライナの子どもたちを数百人、三~四週間にわたって受け入れてきている「チェルノブイリの子ども」[(http://​www.lesenfantsdetchernobyl.fr/​02B1_Historique.php )]が、何ヶ月にも及ぶ運営上の援助を行なってくれていなかったら、ベルラド研究所は絶望的な状況に追いやられていたことでしょう。とはいえ、ソランジュ・フェルネのETB内で果たしていた役割は非常に大きく、厳しい痛手が残りました。\\
 +<​tab>​ダニエル・ミッテラン元大統領夫人は、ソランジュ・フェルネの長年来の友人で、当初からチェルノブイリ事故の犠牲者たちを心から気遣っていました。また彼女は、ユーリ・バンダジェフスキーの釈放を求める運動に「フランス・リベルテ・ダニエル・ミッテラン基金」[(http://​www.france-libertes.org/​)] を挙げて積極的に参加していました。危急を知らされた夫人は、ETBが組織を再編し、活動に全力を注げるようになるまでの三年間[(初年はベルラド研究所予算の 50% 、二年目は 25% 、三年目は 12,5% 。)]、特別援助を行なうようフランス・リベルテ基金の理事会に採択させました。かくしてベルラド研究所は救済されたのです。\\
 +<​tab>​ETBとそのメンバーたちが、チェルノブイリ事故がもたらした数々の被害について、ベラルーシ住民の健康状態について、そして事故によるフォールアウトに襲われた子どもたちを救うためにベルラド研究所が果たしている役割について世に伝えるために行なってきた活動をすべて挙げたらキリがありません。ここでは際立った一例を挙げるにとどめましょう。それは、2006年にアクト・シュッド社から出版されたウラディミール・チェルトコフの著書『チェルノブイリの犯罪』[訳注:和訳は緑風出版が準備中]です。[(http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=bibliographie,​ 他にも多数の参考文献が閲覧可能。)] その他のすべての活動については、ETB総会の報告書と広報に紹介されており、サイト上で閲覧することができます。またその他の刊行物についてはサイトのアーカイブページで紹介されています。\\
 +<​tab>​さて、そろそろ費用や活動の成果といった数字について書かなければなりません。ベルラド研究所の存続を保証するためにETB協会が行なっている資金援助は、両協会が結んでいる契約構造によってはじめて可能となっています。ETBはまた、研究所が実施するべき活動を選択する際、寄付者の方々に対する責任にこたえるため、最少の予算で最大の効果をあげることを目指しています[(協会の公式決算によれば、諸経費は寄付金総額の 5% を超えることはありません(公式サイト参照)。)]。\\
 +<​tab>​ベラルーシ国内で独立した社会活動を行なうことは容易ではありません。協会や組合の結成のみではなく、三名以上から成る集会も禁止されています。政権に反対する者が迫害され、逮捕されることも稀ではありません。このことからもベルラドを創設したときに、ヴァシリー・ネステレンコが「企業」という形を選んでくれたことに感謝するほかありません。ベルラドとETB協会とは、基本的に厳密な商売関係です。この関係を破っては、国際法に違反することになってしまいます。そのために両組織は、通常一年、または二年の商売契約を締結します。研究所は月ごとに契約書の該当部分の活動を実施したという報告書を、請求書と併せて送付してきます。それを受けて協会は、銀行振り込みによる送金を行なうのです。投資は署名の行なわれた見積もり明細(見積もり送り状)のもとに行なわれます。\\
 +<​tab>​しかし残念ながら、当方の資金が不十分なためにベルラド研究所が窮地に陥ることもあります。ここ二年間の状況は芳しいものではありません。ベラルーシ国内での物価や税金が上昇する一方で、わが国で集まる寄付金はむしろ減少傾向にあります。フランスで貧困化が進行したために、国内の慈善活動への呼びかけが増加したことが一因と考えられます。このような情勢のためにとうとう昨年、研究所常勤職員の10% が辞職をする結果となってしまいました。\\
 +<​tab>​ベルラド研究所で働く友人たちは、次のような条件を課されています:職員は政治的に完全な中立を保たなければならず、このことに関してはいかなる失態も許されません。彼らが守ろうとしている子どもたちは、貧困と放射能という二重苦に苛まれているのです。生活条件の方はあまり遠くない将来向上するかもしれないことが期待できる一方で、放射能は、長期間、非常に長期間にわたって環境に留まるでしょう。ですからベルラド研究所は予算の許す限りの最大限を、子どもたちのために尽くすことを求められています。昨年、研究所を辞めざるを得なかった職員の交代要員を新たに募集によって補うことは無謀です。今の応募者たちは、古参の職員よりも高い給与を要求するようになっているからです。確かにモチベーションは高い人々なのですが、熟練職員よりも新人に高い給与を払うことは、組織内に不和を引き起こすことにつながりかねません。しかしチームの再編成は必須であり、最低でも三十人に戻さなければなりません。三名の辞職によって超過した仕事も、当然ながらいつまでも放っておくことはできません。\\
 +<​tab>​特別アクション「永遠のチェルノブイリ」は、同時に二つの目的を掲げています。ベルラド研究所に送金する月額を増やすためにも(2013年度の1万3000ユーロから1万6000ユーロに定着させる)協会の財政に新風を呼び込むこと。もう一つは、協会の目的と研究所の活動を新しい人々に知ってもらい、新たな寄付者を獲得すること。\\
 +<​tab>​ETBがベルラド研究所に月々送っている額は、研究所の支出の70から80% をカバーしています。[(ETBの貢献率がこれほど高いのは、ソランジュとミシェル・フェルネ、ウラディミール・チェルトコフ、ヴァシリー・ネステレンコとの四者の間に築かれてきた長年の深い親交関係に起因します。近年になって、ほかの国々から寄せられる寄付や研究所の独自収入も少し上昇しました。特に福島原発事故後にベルラド研究所が日本に救いの手を差し伸べた結果、日本の団体からの寄付が増えました。ETBによる日本訪問(特に2012年5月のミシェル・フェルネ訪日)も同じ動きのなかに位置づけられるものです。)] つまり彼らは毎月約2万ユーロの資金をもとに現地での使命を果たしており、その恩恵をおよそ2千人あまりの子どもたちが受けていることになります。研究所の活動全貌は次のようなものです:食品の放射能汚染測定、子どもたちの内部被ばく測定、被ばくをしている子どもたちへのヴィタペクトの配給、両親や学校教員への放射線防護教育、放射線測定士養成のための実習(すでに800人以上がこの恩恵を受けている)、移動式測定所の測定値の収集、機材や車の手入れ、建物の維持管理、事務処理など。また支出の内訳は、人件費、税、水道代、燃料費、電気代、ガス代、保健費、情報機器関連の消費材等。これらをすべて計算に入れると、子ども一人の放射線防護にかかる平均費用は、年10ユーロということになります。これは広義でいう最低限の放射線防護措置を表わしており[(ここでいう「広義」とは、再度の検診を要する重度の被ばくケースを除いては、一人一人の子どもの検診頻度が年一回に過ぎないことを指しています。)]、もっとも酷い被ばくにさらされている子どもたちに的を絞ったものです。\\
 +<​tab>​国際社会から締め出されているベラルーシは、チェルノブイリ事故の被害を他のどの国よりも大きく受けています。フォールアウトの汚染を受けた地域に住むベラルーシ人たちに課された運命は、およそ羨ましいと思えるようなものではありません。外国の組織による援助の道を閉ざされ、放射線防護や放射線による被害の評価に関する責任をもつ国連諸機関が進める否定主義政策の犠牲にされ、国内では独立した組織を築く手立ても奪われ、経済的に追い詰められ、状況が改善される展望もないという絶望的な状態です。その彼らの傍らに寄り添い、根気よく手を差し伸べ、闘いつづけるベルラド研究所の存在はなくてはならないものです。ベルラド研究所の助けのおかげで、汚染地域に住むそれぞれの家族は、諦めず、生きつづけていくことができるのです。子どもたちの両親や学校教師には、出来る限り汚染食品を摂取しないよう教えられています。しかしベルラド研究所に出来ることはまだまだたくさんあります。もしも年間二~三百万ユーロの予算が自由になれば、研究所はさらに発展し、チェルノブイリの汚染に苦しむ子どもたち全員に専門的な援助を行なえるようになることでしょう。国際社会による連帯のみが、この目的の実現に近づくことを可能としてくれるのです。\\
 +<​tab>​そして機が熟すれば、46万件にものぼる内部被ばく測定データ(十年以上に及ぶ子どもたちの追跡検査の成果)という科学的資産を、国の医学統計と照らし合わせることも可能でしょう。体内に蓄積されたセシウムの活動は、短期、中期、長期といったあらゆる被ばく期間について科学的に立証され、チェルノブイリ後の世代におけるセシウムの影響についての知見が深められるでしょう。独立の立場によるデータの疫学的処理のみが、こうした研究の成果の信憑性を保証できます。そのためにもベルラド研究所を維持することは絶対必要条件なのです。さもなければこの大惨劇は健康上のものに留まらず、前代未聞の[(「前代未聞」とは、告発されたことがないことを意味しています。歴史を深く研究すれば、このような原因による科学の破綻は、これが最初ではないことがわかります。)]科学上の大惨劇に発展していってしまうかもしれません。国際連合総会の投票によって権威を保証され、世界を放射線から防護する使命を独占している連中が、この科学上の大惨劇を故意に画策し、推進しているのですから!\\
 +<​tab>​特別プロジェクト「永遠のチェルノブイリ」とは団結への呼びかけです。大惨事を招く条件こそ揃ってしまっていますが、その影響は回避可能なのです。放射能の脅威は執拗です。人間は、正面からこれを直視する勇気を持たねばなりません。そして第一に子どもの健康を、子孫の未来を考えられるような聡明さを持たねばなりません。遺伝学者ローザ・ゴンチャロヴァの研究チームが調査をしたヨーロッパハタネズミと同じように人間がふるまうことがあってはなりません。ハタネズミは、鼻先にあるものならなんでも闇雲に食べてしまいます。そして世代から世代へと、どんどん重くなっていく負の遺伝的遺産を継承させていってしまっているのです。
 +<​tab>​締めくくりに[(これほどこの表現が不適格なこともありませんが。「ものごとを締めくくりたがることこそが無能の証しである」というのは、ギュスターヴ・フローベールの有名
 +な言葉です。)]ドィミトリー・アレクサンドロヴィッチ・ポポフの言葉を引用しましょう。旧ソ連の放射線防護責任者レオニード・イリーンの補佐官だった彼は、1989年4月18日にロシア・ブリャンスク州ノヴォズィプコフ地区の行政本庁で開催されていた調査会議で、議論の紛糾に業を煮やした末に、次のような発言を行ないました。著者は、独立・反対の立場の調査官として、友人の農学者でエコロジストのパトリス・ミランと共にこの会議に参加していました。ロシア共和国のなかでも最も汚染の激しい地域のひとつであるこの地区の、農業や保健分野の様々な責任者が揃うなか、ポポフは「住民は [汚染という事実を] 知りさえしなければ、彼らの体が勝手に適応するだろう」と結論し、会議は終了したのでした。\\
 +<​tab>​ヨーロッパハタネズミたちも汚染の事実を知りません。しかし残念ながら、ネズミたちは未だに汚染した環境に適応できずにいます。[(このテーマについては以下のリンクを参照 : http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2006:​etb-068\\
 +http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2005:​etb-037\\
 +http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2005:​etb-051\\
 +http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2012:​etb-112\\
 +http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2012:​etb-121\\
 +http://​enfants-tchernobyl-belarus.org/​doku.php?​id=base_documentaire:​articles-2011:​etb-024)].
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 +~~REFNOTES~~
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永遠nocherunobuiri.txt · Dernière modification: 2014/09/21 09:08 par emache

URL-courte: http://tinyurl.com/m3j7e9z

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