waseda-jp [Enfants de Tchernobyl Bélarus]
 

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チェルノブイリでの放射線防護と、その後

イヴ・ルノワル
Yves Lenoir

はじめに

Yves Lenoir

チェルノブイリの破局的惨事の後には、前例のない甚大な健康被害が続いた。
私が提起したいのは、その起源と制度上の理由の明確化である。
この甚大な健康被害の存在を否認する人たちの聖典とも言うべき、2006年に出た「チェルノブイリフォーラム」報告書の編者たちのうちの何人かが、福島事故後の放射線計測と健康影響予測との担当チームを組織したのだった。また別の«古株»たちは被災地を跋扈し、ベラルーシで破産したはずのエトス=コア方式を適用している。
チェルノブイリでの甚大な被害に光を当てることが、福島後の状況下で進行中の同様の被害に向き合う助けになればと、願う次第である。

1986年4月27日の状況と役者たち

プリピヤチからの退避が始まったのは27日で、爆発から36時間たっていたが、 放射性の霧塊の第一陣がスエーデンのフォルスマルク発電所に到達して、探査装置を作動させるよりは前であった。 1988年4月26日に私はチェルノブイリにいた。その時の診療所長の説明によると、事故に先立つこと数年、アメリカによる«先制»核攻撃が懸念されていた時期に、練り上げられていたシナリオに基いて退避は行なわれた。核戦争を闘う部隊の兵員一人一人の被曝量を1Sv以下に抑えるという積りであったのだ。プリピヤチでの爆発直後の線量は平常の30万倍ほどに当たる、30 mSv/hほどにまで上がっていた。この数字は、事故を起した4号原子炉からほんの数十mの場所で、初日に«清算»作業をした人たちの推定被曝線量から確かめられる。それは3 Sv 以上(125 mSv/h 以上)であった。退避は必然となった。
世界がチェルノブイリ事故を始めて知った時には、プリピヤチは既に町としては死んでいた。
チェルノブイリ後の甚大な健康被害にICRPが果した決定的な役割を述べる前に、まずはこれをご覧いただきたい。

1950〜56年に国際連合の外郭で、放射線防護の諸機関がどういう国際的布置にあったかが、ここに示しておいた。この中で中心的な権威の役割を果していたのは、ICRPである。
階層的な図式に当て嵌っていることが、良く分る。

  1. 研究機関や大学などから発表される論文をUNSCEARが審査する。ここでの篩い落しに残ったものが、放射とその影響に関する«科学»の中身をなす。委員会の報告は国連総会にかけられ、総会はこれを承認して抗い難い権威を与えることになる。
  2. この«権威を付された»基礎内容を拠り所として、

●電離放射線と放射性物質による被曝に人が曝されるあらゆる部門にわたって、払うべき予防・注意措置
●超えてはならない被曝線量の上限値
をICRPが勧告する。

  1. これ以外の諸機関は、この勧告に基いて、規則や法的処置を定める。

1962年にICRPは勧告の適用を任務とする第4委員会を創設した。チェルノブイリ事故当時は、設立から1985年まで第4委員会の座長であったアンリ・ジャメが辞任し、替ってUKAEA 出身で、1959年以来委員会V(現在の第5委員会とは別)、次いで第4委員会でジャメの同僚だった、ジョン・ダンスタが座長になって間がなかった。ジャメは主幹委員会の副委員長に昇進して、委員長のアルゼンチン人、ダン・ベニンソンと並ぶことになった。ベニンソンは1962年から1981年までの間、第4委員会の一員だった。ジャメとベニンソンとはそれぞれ、UNSCEARで、ジャメは1964年以来、ベニンソンは1962年以来、自国を代表してもいた。ジャメはピエル・ペルランにバトンタッチする1993年まで、ずっと代表であり続けた。このペルランはICRPの第3委員会に1969年に登用され、その年にUNSCEARにも加わったのだが、第4委員会に在籍した1989年と1993年の間を除くと、1997年までずっと第3委員会の一員であり続けた。公式の図式に描かれているような一方通行の情報の流れは、こうした兼任の実態によって、否定される!
ICRP=UNSCEARという大家族の系図は知っておく価値がある。

長崎の原爆での« 黒い雨 »の降った地域内でのセシウム137の降下状況と、1986年4月26日のヨーロッパでの降下状況とを突き合わせてみたのがこの図である。
チェルノブイリ事故の重篤性は想像を超えている。分りやすくするために、黒い雨の降った西山地区と同等の汚染になる、ロシアの2つの地区に跨る形で、比較対照の地域を設定してみた。長崎では45 km2 ほどが、最大で 30 kBq/m2程度の汚染である。一方、チェルノブイリでは汚染地域は1 000 000km2以上が、1 500 kBq/m2
を超えるまでの汚染になっている。
チェルノブイリでは、汚染の強い地域が、汚染のずっと少ない地域によって分断されていることに気付く。汚染の度合いのこのような差異は、降雨の役割をはっきり現すものである。しかし当たり前のことだが、雨が多かったか少なかったかにかかわらず、比較的近隣の地域では、より遠方で降雨が多量のセシウム137を地面に染み込ませた地域よりも、ずっと高い密度の放射能の雲が通過したのである。だから、近隣地域の住民たちは、そうした遠方の住民たちよりもずっと多くの放射性ヨウ素を吸引したのだ。ところが公機関に守られた疫学研究が病理学的な効果を説明する際には、土地の汚染線量を基盤にしている。それどころか、汚染地内にある線量の低い地域から、対照集団が取られたりさえしているのである。このような研究の結論を受け入れるわけにはいかない。 « 事故前 – 事故後 » の比較だったらこれよりは良いだろうが。

甚大な危機の状況での、放射線防護への取り組みの2つの流儀

1986年4月28日、クレムリンがチェルノブイリ4号炉の爆発があったことを認めざるをえなくなった後で、いったい何が起ったのか? さらに正確に言えばこうだ。害を既に受けた住民たち、受ける危険に曝されていた住民たち、そして害をこれから受けようとしていた人たちの運命を閉ざしたのは誰なのか?
さまざまな主導的行為の中から、2つを取り上げて比較しよう。ひとつは、ベラルーシの物理学者ヴァシーリ・ネステレンコによるものだが、彼は当時、ベラルーシの首都ミンスクに近いソスニの核研究センターで行われていた、移動式原子炉の構築を目指したPAMIRプロジェクトの責任者だった。もう一方はICRP副総裁であったアンリ・ジャメのもので、彼は委員会勧告の適用の歴史を体現する権威者であった。
ネステレンコから始めよう。彼が事故を知ったのは28日で、クレムリンでソ連の閣僚会議(当時の最高執行機関)の軍産委員会に出席して、PAMIR の進捗状況を報告をしていた。現地との電話で得られる情報は混乱していて、19時の飛行機で彼はミンスクに飛んだ。いつもの運転手が空港に待っていたが、クルマには既に測定機器など必要なものが積み込まれていた。この4月28〜29日の夜中に、ミンスクから、発電所から40kmほどの、ブラヒンというウクライナ国境にある町まで往復する間に測定された空間ガンマ放射線をまとめたのが;この図である。ブラヒンでの測定値は正常なバックグラウンド値の3000倍ほどにあたる300 μSv/h に達していた。帰りに往きと同じ場所で測定していった数値は往きよりもいっそう上っていた。ミンスクに戻ると、彼は研究責任者としての地位を通して動かせるだけの機関や人員を動員して、幾つもの緊急手段を取らせた。安定ヨウ素剤の配布、食品放射線量の測定管理、水浴禁止や屋外散策の制限などである。簡単に言えば彼は、原子力の仕事の責任ある地位の者ならば誰でも知っているはずの、放射線防護の基本原則を尊重してことを運ぶようにさせたのである。可能な限り多くの人が、放射線被曝を回避できるよう、一刻の遅れもなくことを進める、それが基本原則第1条である。
4月28日に、当時、ソ連側の放射線防護責任者であったレオニド・イリン教授と、最初に連絡を取った西側の人物の一人がアンリ・ジャメだ。ジャメにとってUNSCEARソ連代表のイリンは、そこでの同僚と言うより、ま新しいアルターエゴであったと言ってもよい。
5月6日にジャメは、コペンハーゲンでダン・ベニンソンを座長に開かれた最初の専門家会議に出席した。信頼できる証言によれば、「専門家グループは、雨水の使用を警告し、食品の放射線量を監視するよう勧告したが、住民の退避は提案されなかった」また、「事故後10日めの国際専門家会合は事故評価にも勧告にもたいへん控え目であった」….
では、このもっとも肝要な時点での、彼らの勧告の射程はどのようであったろうか。放射線防護の世界的権威は、物理学者ネステレンコが要求したのと同じようなさまざまな措置を勧告しただろうか。
彼らを裁くには恰好のものとして、内容の一致する2つの証言がある。
まず第1に、6月4日付ルモンド紙の医学欄がアンリ・ジャメ博士自身を情報源として、チェルノブイリ事故の被害を受けているヨーロッパ諸国の反応の« 協調性を取る » ための公式派遣団の機関を報じている。その中から、
ここでは彼の勧告に関する基本的な部分だけを取り上げる。
「…..チェルノブイリ近くの村々の住民たち(約1000人)のうちで、風下にいた人たちは大量の放射性放出物の影響を受けている……。彼等は完璧な臨床検査を受けているし、医学的な監視の下に置かれることになるはずではあるが、こうして被曝したことが、健康上に何らかの結果をもたらす、ということを、今ここで、確信をもって言えるということではまったくない。
反対に、こうして害を受けた場所は、人が再びそこを訪れ、危険なく居住するに先立って、注意深い調査の対象となるべきであろう。….
ロシアの放射線環境学の専門家たちの決定を導くのは一つの«最適化原則»である。……
かなり遠方では、…..実際の放射能汚染が宣告がされうる。……この程度の汚染には……いかなる臨床的結果を伴うこともなく、したがって、何か特別の措置を必要としない」
ヨウ素131に対する子どもたち感受性を強調したUNSCEARの出版物や、甲状腺の被曝量は子どもの場合には10〜50mSv を超えてはいけないことが特記されている1965年の「ICRP 9 」に照らして、アンリ・ジャメがここに示しているような事態放置策には言葉もない。
ここで、« 臨床的結果» と « 最適化原則 » という2つの表現を記憶しておいていただきたい。
ここでソ連に戻って、ヴァシーリ・ネステレンコが取った行動への反応がどうであったかを見ておこう。
4月29日の夕刻、ネステレンコはベラルーシ閣僚会議中央委員会総裁のミハイル・コヴァレフに面会していた。この委員会だけが、緊急事態宣言や人民強制避難を発令できるのである。ネステレンコが状況と取るべき手段を説明するのと並行して、隣室では保健大臣サフシェンカがレオニド・イリンに電話で、ネステレンコの提案を伝えていた。その前日にジャメ博士とそういう問題を議論済みだったイリンは、こう答えたのである。
「急ぐ必要はない。避難は適切でない」
ネステレンコの要求が適切だったことは、その直後、1986年5月14日にベラルーシ共産党中央委員会にネステレンコが回付した恐るべき数値からも明らかである。
「ブラヒン、ホイニキ、ナロフリアの各地区での1986年4月27日〜5月5日のガンマ放射のエネルギー水準は、50〜150Radに逹した模様である。…..甲状腺に吸収された線量の水準は50〜1500Radの間にあるが、これは住民に対して定義されている、…..事故の際の最大値をすら、大幅に上回る。」
5月3日に、ホメリ州の査察に続いて、ネステレンコは、原発から30km圏とされていた避難区域を100km圏までに拡大するよう要求した。この提案は中央委員会に回付されて、5月7日の委員会で討議に掛けられた。
ダン・ベニンソンが座長を務めた国際会議の翌日に当たるその日、ヴァシーリ・ネステレンコは中央委員会の集まりから追放されたのだった。
ウクライナ閣僚会議議長のリアシュコも、広範な防護策を取った廉で、モスクワの大幹部たちの前で罵倒を受けている。
ICRP勧告が、レオニド・イリンという仲介者を経て、忠実に実行されたのである。
写真は1970年代にICRPの会合の合間に撮られたジャメとベニンソンだ。

国際組織の防護科学者の人脈

続く危機を通じて、それに対処すべき諸機関の最優先目標が、はっきり目に見える。であればこそ、突然でしかも未曾有のチェルノブイリ危機こそは、ICRPとUNSCEARによって執行されている権力と、彼らの共同プロジェクトとの本質を、もっとも雄弁に暴露するものとなったのである。
このジャメとかベニンソンとかは、いったい何者であろう。彼らはどこから来たのか。どういう文化に浸って生きてきたのか。彼らの深部にある、何があっても譲れない選択肢は何だろうか。 彼らは防護学者の第3世代に属している。
第1世代、パイオニアの世代は、1928年7月27日のストックホルム会議で形成された。「X線とラジウムからの防護のための国際勧告」という最初の勧告が採択された会議である。放射線学者や放射線療法士の健康保持のためのものであった。この世代には、スエーデンの医療物理学者ロルフ・シヴァート(シーベルト1896-1966 )、そして放射線計測の専門家であったアメリカの物理学者ロリストン・テイラ(1902- 2004)という二人の著名人が含まれる 。二人はともに、ICRPの主幹委員会に、初めは委員として、その後は名誉委員として、前者は1964年まで、後者は2004年まで、休止なく座を占め続けた。
協調性と実効性を気にかけていたロリストン・テイラは、彼自身の言葉に従って言うと、グループの扱いやすさを保証するために、メンバーの数が増えないようにした。1947年には、原爆後の情勢の中で、テイラは、科学的な不確かさを一般の人たちの目の晒すと、世論による信頼が揺ぐことを恐れて、被曝限度を巡る討論を公表すべきだとする意見を葬り去っている。
第2世代では、ICRPと、そして特にUNSCEARへの、マンハタン計画(アメリカの第2次大戦中の原爆開発)参加者たちのの流入が見られる。広島、長崎の存命者の研究にはオスティン・ブルス、シールズ・ウォレン、ジアキーノ・ファイラ、メリル・アイゼンブド、ジェイムズ・ニール、ジョン・ローリン、マクス・ツェレ、シャルル・デュナム、ポル・ヘンショなどが加わった。この人たちは総体として、1927年に放射線が突然変異を起こすことを発見したハーマン・マラをはじめとする遺伝学者たちの慎重な態度を攻撃した。この人たちにとっては、簡単に言えば、臨床結果が不在であるならば(今のところ発病していなければ)、被曝は無害で、予測できる健康上の影響もないと考えるべきであった。
X線とラジウムとへの秘教的信仰の中で育ち、原子爆弾の力に魅了されていた彼らは、原子力と放射性同位体の適用の中にこそ未来があると信じ込んでいた。ブレーキを掛けるなど、問題外であった。かくして、ハーマン・マラの拠り所ともなっていた、遺伝学者アルフレド・スターティヴェントによって1954年6月に公に表明された怖れに対して、USAEC の親玉ルイス・ストロスは真っ向から否認する議論を展開したが、その結論はこんな書き出しであった:
「根本的に言って、原子力が広く使われる世界へ人類を適合させていくという問題はたいへん真面目なものであって、だから我々は(遺伝学者一派のように)消滅しそうなほど僅かな確率的可能性について重大性を誇張するような真似はしないのである」
USAEC (米原子力委員会)の生物学と医学の部門の責任者であったオスティン・ブルスは、当時、ICRP委員会IIの一員で、また翌年にはUNSCEARの最初のアメリカ代表の一人にもなったが、「癌研究」誌に載った「科学における新なる感情論」という騒々しい論文の中で、しつこく念を押している。同じような物言いが何度も出るが、例えば、こんな文章だ:
「私は今、遺伝学者ではないが、私は医学校へ行ったし、ヒステリーの特徴的症状の一つは、視野の狭窄である……」
ブルスは1946年には、トルーマン大統領に働きかけて広島にABCCを設立させた人々のうちの一人で、前にも挙げたジェイムズ・ニール、ポール・ヘンショウやシールヅ・ウォレンとともにその指導者の一人となった。
この50年代の中頃には、私が「臨床家」と読んでいる人たちが第一線に立ち、未来を準備していた。
第3世代は、慎重な姿勢を貫こうとしていた遺伝学者たちがほぼ敗退したところに登場した。遺産相続人の世代である。ダン・ベニンソンとアンリ・ジャメはここに入る。2人はたいへん若くして、この名門家系に入り込んだ。
放射性降下物を巡る世間での議論は喧騒を極めていた。原子力のイメージは不透明となった。それが彼らの一番の関心事であった。原子力の未来は、一般の人たちがその危険性をどう考えるか、放射能防護をどう考えるかに、かかっている。彼らにはそれが分っていた。彼らは、原子力への信頼を立て直すことを自らの任務としたのである。この役割に身も心も捧げ、自らの存在を投げうったのだ。
1930年生まれのベニンソンは、1954年にブエノス=アイレスで医学の学士号を取った。彼がその後2年間を過ごしたのはロレンス・リヴァモア研究所という、1940年設立で1941年にマンハタン計画に組み入れられた研究所内の、ドナー研究室(核医学生誕の地と言われている)である。博士号を手に入れ、アルゼンチン原子力委員会の要員となって、ついでにUNSCEARのアルゼンチン代表になっている。その時、彼は26歳であった。 1962にはUNSCEAR代表となり、2004年に亡くなるまで、その地位にあった。
1920年生まれのアンリ・ジャメはメード・インCEA(フランス国立の原子力研究所)の純粋培養品であって、 1951年に防護部門の責任者になっている。2年後にはICRPの新メンバーに指名されている。33歳であった。1958年には、UNSCEARのフランス代表に指名されている。
2人はともに、現在、特に福島で第一線に立っている第4世代の人々の人選に深く関係した。そうした一人が、引退間際とは言え影響力を失わずにいるアベル・フリオ・ゴンサレスだが、彼はベニンソンの直接の後継者で弟子でもある。
図では、こうした大指導者たちの間で、UNSCEARの役職とICRPの役職とを兼任する伝統が見て取れる。言うまでもなく、この人たちは皆、それ以外の数え切れない機関でも専門家とか顧問という形で役職に就いている。 特に国連関係で言えば、IAEAとWHOでだ。
放射線防護の国際複合体内での世代間の遺産の引き継ぎに関して、イメージしていただけるようになったことと思う。

1988〜89惨状の実相と、新しい危機

1988年末から翌年頭にかけて、チェルノブイリでは健康状態の悪化が進んだ。子どもたちの具合はますます悪くなった。家畜も惨憺たる有様だった。人々の怒りも増した。ソ連政府も汚染マップの公表を余儀なくされた。ベニンソンとその同僚たちとが、事故以来、あらゆる講演や、また政策決定の場などで主張してきた、影響を最小限に見積った予測は、完全に信用を失墜した。
汚染した場所が豹の斑模様のように散らばった地域で、住民たちは移住を要求した。どうしたら良いのか? 前にも引用した信頼できる証言の続きを読めば、イリンやICRPの指導者たちが、どうやって問題を処理したのかが分かる。
「彼らは3年後にウィーンで彼らは、一生のスパンで計算した、地域住民に対して我慢させられる線量上限について、数値を上げる議論を非公式にしていた。彼らが閾値を定め、それを超える場合は移住させる必要がある、ということは了解された。L.イリンの提案している350 mSvという数値が受け入れられ、数日後には公表された」
この線量はICRPが勧告していた住民の被曝限度の5倍にあたる。ソ連での求心力低下の動きが、チェルノブイリの問題を巡って徹底して加速していった当時の流れの中で、数十万人の人々を危険に晒していることを覆い隠してきた嘘の数々を知って衝撃を受けた世論を前に、この基準を押し付けるには、自分たちはあまりに弱体だと、権力は感じていた。専門家たちが権威であり続けられるのも、正当性があると受け取られている限りでのことである。世論やメディアにとっていちばん目立つところにいるソ連の放射線防護担当者たちの権威は、地に墮ちていた。しかし、さらに多くの人たちを移住させるのは費用が嵩み過ぎるように思われた。何とかして、この新しい上限値を受け入れさせる必要があった。
そこで、WHOが呼び出され、この決定の正当性を人々に納得させることを職務とした、最上級の専門家たちの派遣団の任命を任される。WHOには放射線の専門的な知見などはほとんど皆無だが、しかしICRPという馴染のない名と違って、WHOのもつイメージならば人は安心する。派遣団にはダン・ベニンソン委員長と、第3委員会のピエル・ペルランというICRPのメンバー2人が含まれていた。旗持役は「WHO事務局放射線防護グループ長」というパッとしない役職の、ピータ・ウェイトというカナダ人だった。1989年7月のことである。
1990年4月15日に私はミンスクでミハイル・ゲマスタイエフという物理学者と出会った。彼はある公開の講演会で、350 mSv についてベニンソンに質問をぶつけた。この基準に異を唱える質問者に向かって、ベニンソンはこう言った。
「あなた方には金がないじゃないですか。ということはつまり、避難はさせられません。だからつまり、問題なんてどこにもないということです」
こうした物言いに、いかがわしいところなどまったくない。1973年にICRPの「出版物22号」で提示され、4年の後に「ICRP勧告」と題された大部の「出版物26号」に包摂された、「最適化原則」の精神と文言を守ったものなのである。
では、勧告適用の哲学の、2つの言葉にについて論じることにしよう。

「できる限り低く」と「最適化原則」

1974年4月17日にアンリ・ジャメ博士は、放射線廃棄物管理の技術的選択肢を査定する省庁連合会議で、講演した。私も会場にいた。その日に、放射線防護の一番の問題は経済性だということが、私にはよく分かった。ジャメは、この図に示した図式を使いながら、発表の全体を、前年に発表していた「最適化原則」の説明に費した。
副作用を伴う一つの行為を扱った、ありきたりの経済学的最適化曲線が提示されている。これは本物の « 費用対利益分析 » ではない。本物ならば、« 利益 » の縦軸に、同じ線上の « 被曝 » の縦軸の数字と向き合わせて数字を入れるはずだが、そうではなくて、より良い放射線防護のための付加費用と避け得る被害とが釣り合うように被曝の値を決めようというのである。
ベニンソンの応答をどう解釈すればよいだろうか。
より多くの人たちを避難させるには、多額の出費が必要で、それも猶予なく借入金によって賄う必要があるとされた。あてにできる利益は、3つの理由から、仮想的なものに留まるとされた。第1に、利益は何年、あるいは何十年もの後になってからのごく僅かな健康出費額分に相当するのだとされた。第2に、避け得る支出については、数値化不可能とされた。第3に、支出が避けられたからと言って、それで借入金が返せるわけではない、というようなことであった。
この「最適化原則」はどういう必要に対応しているのか。
「as low as… 」の知的轍から抜け出す必要にである! この轍の最新版は、ICRPの「出版物26号」で定式化されている « ALARA (As low as reasonnably achievable合理的に達成可能な限り低く)の原則 » だ。さまざまに形を変える、一連の「as low as… 」は、1954年のICRPの「出版物1号」から既に始まっている。 医療分野で推奨されていた“lowest possible”(できる限り低く) が、ここで“as low as practicable”(実行可能な限り低く)に席を譲り、さらに1959年には、ほとんど同じ意味の “as low as is operationnaly possible”に変わった。難点は明白だ。拘束力のない形だけの規則なのである。1965年に「出版物9号」が明確化を行なった:「線量はすべて、経済的、社会的な影響を考慮に入れた上で、as low as is readily achievable (速やかに達成可能な限り低く)抑えなければならない」ということで、つまりはどういう状態であれ正当化される。「速やかに」とは、つまりは「楽に」ということだ。2001年にはALARAからALARPへの移行が議論された。PはPraticable(実行可能)である。これは立ち消えになったらしい。ICRPは“as low as…” の哲学的袋小路に、迷い込んだままだ。
「最適化原則」には、ものごとを数値化さえすれば、どんな批判に対しても予め備えておけるという、知的快適性がまことに備わっている。一例ごと、実情に合わせれば良いのだ。最適化された防護mesuresの計算例は、「出版物37号・第4委員会」(1983)の中に幾つか提示されている。そうしたうちの「放射性産物廃棄に関する最適化の一手法の例」という題名一つで、批判者たちのうちのもっとも困難を厭わない者さえ、口を閉ざすということであろうか、何しろ、そこには計算に使用された(変数だの、機能係数だの、媒介変数だのといった)シンボルの一覧だけでも4ページもあるのだ。

「最適化原則」の適用は、1976年にアンリ・ジャメの主導で創設されたCEPN(核の分野での防護査定研究中枢)の商売の中身そのものだ。CEPNのメンバーはたった4社で、フランス原子力局、フランス電力、放射線防護原子力安全研究所、AREVA社である。石綿など、放射線以外の危険分野にも、商売を拡げている。\\2000年代の初め頃から、ICRPはCEPNに従属するようになり、自分たちではできない高度な数学計算はこの組織が頼みである。1979年以来この組織の頭脳である経済学者のジャク・ロシャルが、今ではICRPの副代表であり、彼のチームが、放射能への恐怖をモデル化する理論を携えたティエリ・シュネデルという数学者とともに、また福島エートスにも依りながら、「ICRP福島対話イニシアティブ」なるものを推進している。ジャメはここでも、遺業としてではあれ、新なる戦略的成功を収めた。CEPNはICRPに包摂され、逆にICRPもCEPNに……!
放射線防護は科学のような顔をしているが、科学ではない。Sa pratique par gros temps est toute d'exécution. ネステレンコは人々を護るためにできる限りのことをした。ジャメとベニンソンは、彼らの「最適化原則」を実現しようとさえ努めなかった。彼らは結局、原子力産業の将来を保全する目的に沿って、「最適化原則」を適用しただけのことである。

「チェルノブイリ・フォーラム」報告書出版に先立ち、UNSCEARとIAEAから幾つものコミュニケが出され、1986年9月のウィーン報告会議での予測と、事故の実際の帰結とが、よく一致していることを強調していた。つまり専門家たちは、自分たちの論文の中ではまったく想定しなかった状況に関して、その帰結を数値化して示す手段を1986年には手にしていたというのである!
疫学的調査結果のこの報告では、健康被害はほとんど存在しないと断言されているのだが、調査結果の中身そのものはそうなってはいない。しかし、こうした裂け目の記述に入り込むことはすまい。至高の権威が現実原則を退けているようなところで、闘いに参入しても無益である。この権威を裁くことが許されている審級などないのだ。
「臨床的結果は皆無…….」と、ICRP副委員長で、世界でもっとも原子力化されている国のUNSCEAR代表であった人物が、1986年6月初頭に予言しているのである。ベニンソン、イリンその他、ジャメの仲間たちはこの帆船に乗り込み、2つある船首の一方から他方へと絶えず行ったり来たりの乗り移りを続けてきた。目指す岬は50年代以来変わりがない:原子力の発展である。
チェルノブイリによって何千という数の科学論文が書かれることになったが、UNSCEARがその選り分けをした。
今、一瞬だけ、想像してみよう、委員会のただ中で、いとも長い年月、考えを共有し、論文を共著してきた仲間たち知人たちの居並ぶ中で、一大勢力が急に立ち現れて、ICRPの中枢にいる同僚たちのうちでもっとも影響力のある者たちの、チェルノブイリの甚大な健康被害を生み出す過程における責任を問うような仕事を維持していく、というようなことがあるかどうか。そうなれば、ICRP側の船首とUNSCEAR側の船首との間で魚雷を打ち込み合うようなものだろうか…….そして小舟は沈みかけるであろうか。
実際にそんなことがあったと仮定してみよう。国際的な放射線防護は乗組員もろとも沈んでいたことだろう。政治エリートやオピニオンリーダたちが掲げてきた原子力の有用性や無害性への信頼は、決定的に馬鹿にされることになろう。産業発展モデルの支柱が一つ、崩れ落ちることになろう。EPR(欧州加圧水型炉)よ、高速増殖炉よ、核融合よ、さようならだ! チェルノブイリどころではない惨事ではないか!
しかし、国際原子力村には、見渡したところゴルバチョフはいないようだ。創業の父たちは、事業の行く末に熟考を払っていた。彼らの創造物はチェルノブイリの試練を乗り超えただけでなく、それを通じていっそう強くなりさえした。福島危機の運営がその証左である。

彼らは劫を背負った。存在し続けるには、一丸となって真実を否認し続ける以外にないのである。「原子力様の仰せの通りに!」

参考文献

一次資料
ICRPの年報 1928〜2013
「ICRP年次報告」 1997〜2012
アニ・シュジエ 「ICRPからの手紙」8〜15
「UNSCEAR報告」 1958〜2014
WHO : インターネット上のデータベース
CEPN : インターネット上のデータベース
スーザン・リンディー「アメリカの科学と広島原爆生存者」シカゴ大学出版局1995
クリストファ・ジョリ「不確かさの閾: 降下物論争における、放射能と責任性」オレゴン国立大学2003
ブライアン・マディスン・ジョーンズ「タブーの廃止:アイゼンハウアとアメリカの核ドクトリン1945〜1961」Herion2011
マルク・モリトル 「チェルノブイリ:否定の過去・脅迫の未来?」Racine-RTBF,2011
ヴァシーリ・ネステレンコ「チェルノブイリ惨事後のベラルーシ、最初の日々」(フランス語訳が下記にあり)
http://enfants-tchernobyl-belarus.org/doku.php?id=base_documentaire:articles-2003:etb-137
ヴァシーリ・ネステレンコ: RODNIK の5、6、7号(いずれも1990)に掲載の諸論文
ベルナル・ルルジュ「チェルノブイリ:雲が通過—事実と論争」Harmattan2008

 2次資料
広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会「原爆災害—ヒロシマ・ナガサキ」岩波書店2005
ACHRE:人類の放射線体験への勧告委員会、1995 (下記よりダウンロード可能)
http://enfants-tchernobyl-belarus.org/HTML/achre/
ウォード・ウィルスン「核兵器をめぐる5つの神話」HMH2013
デイヴィド・ホフマン「死んだ手」Anchor Books2010

翻訳: 竹内雅文
スライド翻訳: 新居朋子

イブ・ルノワル
(Yves Lenoir)
«チェルノブイリ/ベラルーシの子どもたち»代表。元・フランス国立上級鉱業学校研究員(応用数学)。著書に「気候パニック」(邦訳: 緑風出版)他。

waseda-jp.txt · Dernière modification: 2015/12/08 09:01 par emache

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